聖書解読と暗号解読の共通性-そのキーは何か-
これ、ゴルゴ13の名言だ。暗号とは、関数。簡単に言えば次のようなものだ。
あらゆる情報は0と1に置き換えられることは現代の常識。たとえば、それが1010111だったとする(これを「平文」という)。これは十進法では87。そこで例えば素数11で割る(これを「法」という)と商が7で余りが10だ。
さてこの平文(87)を送るのに暗号化するのだが(これを「コード化」という)、相手には(7,10)、つまり商と余りだけを送る。そして相手にはあらかじめ法(11)を知らせておく。これがキー(カギ)だ。
すると受信者は7×11+10=87とデ・コード化し、さらに二進数に直して1010111を得る。ここでキーが分からない第三者には(7,10)は意味不明となる。あるいはキーを別の数にすれば、当然元の87は再現されない。
このような送信者の一連のプロセスが、ゴルゴ13の言う\(Y=F(X)\)とし、Yを送る。Yを受け取った受信者は\(X=F^{-1}(Y)\)として再現する。\(F^{-1}\)とはFの逆関数、つまり逆の操作を表す。
実は聖書も同じように神の真理がコード化されているわけ。これを普通の人間の言語で表現しているのだが、それはあくまでも暗号文であって、元々神が伝えたいことではない。
人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。
自然魂の人は神の霊に属する事柄を受け入れません[1]ここも誤訳。原文は「魂の」だ。つまり霊によらず、魂の知性で理解しようとする人のこと。。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。-1Cor 2:11-14
聖書の言葉を日本語のマトリックスで理解してもそれは表の暗号化された言葉の理解であって、真の霊的な真理を理解したことにはならないのだ。霊のことは霊によってのみ解くことができる。
ジーザスは言われた、聖霊はすべての真理にあなたがたを導く、また内なる塗り油はすべてを教える、と(John 16:13;1John 2:27)。すなわち神の暗号を解くキーは、人の霊と共に働く神の霊、御霊である。御霊によらずに表向きの日本語の理解をするので、ニッポンキリスト教なる世界的にも特異的なタコツボ業界ができあがるのだ。
たとえば、いつも言うが、マタイ5章の山上の垂訓の例:心の貧しい者は幸いである。これはそもそもが誤訳。「心」ではなく「霊」である。なぜこうも恣意的な訳語の用い方をするのか、自然科学系の人間からするとまったく理解不能となる。これに基づいて、次のような三浦綾子文学ができる。
心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。(三浦綾子・新約聖書入門より)
まったくの見当外れ。罪(ハマルティア)とは「見当外れ」であるとニッポンキ業界のボクシたちも説教してるであろう?ジーザスが言われるのは、霊が貧しい(乞食のようである)だ[2] … Continue reading。それは霊が神の霊に対して飢え渇いていることに他ならない。そして解読に誤りがあれば、キーを新たにし、一から聖霊の導きによりやり直すこと。これが真の遜りである。
かくして、そもそもの誤訳や適当な前提の上に、いわゆるキリスト教神学や教義や思想が、いわば人間の大脳の勝手な分泌物として構築されるのだ。しかるに御言葉は御霊の導きの下において御言葉によって解くこと。
主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。-Isa 34:16
御言葉には連れ合いがあるのだ。聖書は聖書の中の御霊のマトリックスによって構築され、それを説くカギは人間の霊と御霊の相互作用によるのだ(☞フォティーゾのメカニズム)。
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はじめまして。
ルークさんのメッセージを最近聴くようになりました。
ルークさんのおすすめの田川訳の聖書は買いました。
ただ、日本語訳の聖書がダメだダメだと言われると、日本語しか出来ない自分はネガティブな思いに捕らわれてしまい、どうしたら良いのかと焦ってしまいます。
普通に読む分にはあまり気になさらないでよいです。特に旧約は軽く読んでください。分析的に読むときには注意が要ります。あと、岩波訳をお勧めします。