「第二の恵み」は偽りである、と再建主義者
「第二の恵み」は偽りである、と再建主義者(☞http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi)。同意だ。聖霊のバプテスマを受けてるとかいないとか、これも聖霊派のお題目だ。ジーザスと聖霊を分離するから[1] この点、アンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』は聖霊論として秀逸である。。
ニッポンキ業界聖霊派では、ジーザスは天の御父の右にいて、地上は聖霊様(彼らの言い方)がいる。これは聖霊派の聖霊論であり、三神論だ。ベニー・ヒンは2015年あたりに、両者は分離できないと自分の教えを悔い改め、聖霊は”ジーザス・アンリミテド”と言った(至言である)[2] こちらに紹介してある☞最近のベニー・ヒンの聖霊論。が、相も変わらずニッポンキ業界では…
ジーザスを信じた時点ですべては完結している。なぜなら、「聖霊によらないではだれもイエスを主とは呼べない」とあるから(1コリント12:3)。対偶を取れば、イエスを主と呼ぶ者は聖霊を受けているのだ!騙されることなかれ!
- 御霊と人のかかわりについて(@KFCサイト)
tomi 2017/12/25(月) 09:37 第二の恵みを主張する人々の隠れた動機 「信仰しただけではだめだ。○○の体験をしなければならない」 信仰後に第2の恵みを受ける必要があると唱える教えは、ことごとく反キリストである。 われわれにとって、イエス・キリストへの信仰による救いは「完全な恵み」であって、それ以上追加すべきものは何もない。 なぜならば、イエス・キリストは「信仰の完成者」だからである。
イエス・キリストは、信仰を創始され、完成されたのである。つまり、イエス・キリストは信仰に関して「アルファであり、オメガである」。 信仰に関しては、イエス・キリストがすべてであり、彼お一人で完結している。 それ以上何も追加する必要はない。 マリアも不要。教皇も不要。 イエス・キリストを信じて、なおも聖霊を受けていない人などいない。 なぜならば、信仰者には「約束の聖霊の証印」が押されるからである。
「信仰による聖霊の証印だけではだめだ。御名による証印を受ける必要がある」というのも「第2の恵み」の異端である。 私はかねてから「御名による証印」を唱える川口常仁氏に対しては「それは聖書のどこにも記されていないし、イエス・キリスト以外の恵みの必要性の主張であるから異端である」と主張していた。 そして、彼がこの教えを唱える教会から除名されたこともあり、考えを変えたと思っていたが、間違っていた。 先日、ミレニアムの会員の方に対してその教えを再度主張したので、本日電話にて「絶縁」を宣言した。 読者の皆様には、このような「第2の恵み」の教えを唱える人々には、接触しないようにお勧めする。 2. サタンのやり方は巧妙である。 イエス・キリストをそのまま否定すると反発を食らうので、「イエス・キリストへの信仰だけではだめだ」と追加を主張する。 ローマ・カトリックのマリア崇拝も同じようなものである。 「別の仲保者」としてマリアを立てることにより、イエス・キリストの御姿をかすませる目的がある。 「修養」とか「黙想」なども注意しなければならない。 行いの強調は、「イエス・キリストへの信仰のみによる救い」を弱める目的をもつ場合がある。 全部とは言わないが。 3. クリスチャンになってから「聖霊のバプテスマを受けた人」と「受けていない人」で違いがあるなどという教えも間違っている。 たしかに私も聖霊のバプテスマらしきものを受けたことがある。 しかし、それがクリスチャンをさらに高い段階に至らしめる特別な恵みだとは考えない。 イエス・キリストを信じた人は、聖霊のバプテスマというものを受けたにしても、受けなかったにしても、等しく全員が「王なる祭司」であり、この世界と歴史の主人公である。 イエス・キリストの信仰以外のものを追加する心とは「自らへの権威づけ」である。 信仰を自分の利益のために利用する恐ろしい心である。
「敬虔を利得の手段と考え」てはならない。 つまり、宗教で金儲けをしてはならないのである。 教会や個人に権威を与えるために「イエス・キリストの信仰以外の恵み」を作りだし、それによって金儲けを企む人々に欺されないようにしよう。 |
References
↑1 | この点、アンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』は聖霊論として秀逸である。 |
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↑2 | こちらに紹介してある☞最近のベニー・ヒンの聖霊論 |
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