欺かれたマインドは言う、「神は理不尽な苦難を与える」と

 

ヨブ記の本質はどこにあるのか。神の前で絶対的に正しくかつ忠実だったヨブの元にサタンが神の前に出て、彼を試すことを許される。その後のヨブは惨々たる状態に陥る。しかも彼は自分はこのような目に遭う理由がないと、あくまでも自己の正当性を主張する・・・。神はなぜこのような目に自分を会わせるのか[1] … Continue reading。神は与え、また神は取られる・・・[2] … Continue reading。彼は完全にマインドの闇に陥っている。

神がサタンの試みを許可したゆえにヨブは苦難に落ちたのか?神はあえてサタンに人を試みさせるのか?アブソリュートリー・ノー!!!御言葉はこう語っている。

恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25

彼はすでに自分がこのような状況になることを恐れていたのだ。彼について御言葉はこう証言している:

この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5

彼は恐れに基づいていけにえを捧げていた。つまり彼のフェイスには穴が開いていた。そこをサタンはつけこんだのだ。ニューエイジ的に言えば、引き寄せの法則。彼自身がサタンに正当な権利を与えてしまっていた。FEARとは”False Expectation Appearing Real”だ。まさに恐れていることが実現する。

メッセでも語っているが、自分が同意することはそれを自分の上の権威とすることだ。つまりヨブは恐れに同意することにより、ヨブ自身がサタンに許可を与えていたのだ。ゆえに自由意志を損なわない神はそれを防ぐことはできない。

むしろ、逆に神はサタンの仕業を制限して、ヨブを守られたのだ。決して神がヨブに対してサタンを用いて試練を与えたのではない!このようなマインドから、映画『ポセイドン・アドベンチャー』の牧師メンタリティに陥る。「神よ、お前は何人の犠牲を要求するのかぁ!」と。しばしば人はこう叫ぶ、「なんで神がいるのにこんな悲惨を放置しているのかぁ」と。

これは神を告発すること。恐るべき罪である。ある試みを受けた友人のBlogのコメント欄に、カトリックと思われる人が書いている:「ある神父の本に、天の国の入口で神様がなさるのは『生きている間つらい想いをさせて申し訳なかった』と謝る事だそうです。」・・・。嗚呼、なんということを!

神が病気を送ってわれわれを訓練するとか、サタンを用いて苦難をもって罪を裁くとか、いわゆる”罰当たりメンタリティー”はどこから来るか[3]これはジーザスの苦しみと十字架を無効にすることである!。それこそあの世界を欺く者がルーツである。このようなメンタリティーに陥るならば、某集会の教えのように自己矛盾に落ちていることすら気がづかない。私たちの益のために神が送った病気を医者によって直してもらう?[4] … Continue readingはあ?

そのようなメンタリティーは神の癒しや神の救いすらを拒絶してしまうのだ。神は絶対に善。ゴッド・イズ・常にグッド!誰が自分の子をしてそんな目に合わせたいだろうか。ヘブル書で父は子を訓練するとあるではないか、とある人々は言い出す。そのとおりだ。それは訓練であって、ヨブのような悲惨な災難ではない。ヨブは自分のフェイスの穴と、自己正当化に気づくべきだったのだ。

かくして最後にようやく

あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。-Job 42:2-6

と告白する。自分を退け・・・なんと素晴らしい証ではないか。われわれは神の前に自分の正しさとか忠実さによって良しとされるのではない。キリストが私の義となってくださり(1Cor 1:30)、キリストとの一体化により私自身も神の義とされるのだ(2Cor 5:21)。神がわれわれに謝罪するのではない、われわれが悔い改めるのだ。

しかもヨブは神の主権に服し、友人を許して祈ると、2倍の祝福を得ているのだ。神はアブラハムにイサクを要求されるが、イサクは取り去られたか?ノー!アブラハムはすでに山に登る前に「わたしと子供は礼拝をして戻ってくる」と証言している(Gen 22:5)。彼は復活を信じていたのだ。しかも彼は「礼拝をして」と言っている。「苦難を克服して」とは言っていない!それは礼拝。Are You with me?

サタンに欺かれるならばわれわれのマインドは神をさえ告発する。神よ、あなたは不正だ!と。しばしば障害者などを扱う教師や福祉に携わる人の心の奥底にはこのような神に対する告発が隠されている。神よ、あなたはこれらの人々をこんな状態にしているが、私はこれらの弱い人々に寄り添っているのだ、と。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。-Jer 17:9

イエスはご自分の元に来た病んでいる人をすべて癒された。フェイスには常に応えてくださる。ゴッド・イズ・常にグッド!ここでもいわゆる宗教としてのキリスト教の価値観や思想やメンタリティーを捨て去る必要がある。神がサタンの試みを許されるのではない。神はサタンに制限を与えるのだ。なぜ?それは自分がサタンに許しを与えてしまっているから。もし神の制限がなければ、サタンはそれこそ究極までわれわれをいたぶる。彼は、盗み、殺し、滅ぼす者だから。

自分が何を聞いて、何に同意するか。病気が癒されない人の特徴は間違った対象に自ら同意している。医者に同意するともらったクスリを止めるのが恐ろしくなる。10種類も、下手すると30種類ものクスリを飲まされる。医者を回るためには時間とカネと労力を投入するが、そのために礼拝には来る体力もなくなってしまう。本末転倒であろう。だから神は介入できない。まず気づくべきだ。自分のフェイスの穴に。自分が何に同意し、何を信じ、何に委ね、何に頼っているのか。それがあなたを支配するのだ。

ヨブの最後のように、自分を退けて、悔い改める者は幸いである[5] … Continue reading

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1 自分のまいた種の刈り取りは論外ですから、念のため。歯を磨かなければ虫歯になるのが道理。虫歯になってから奇跡によって金歯を求めるのはナンセンス。聖霊派は喜ぶであろうが。
2 私はクリスチャンになりたての頃、神があえて苦難を与えるとの教えに恐れおののいた。神が許可されたら、誰に救いを求めたらいいのだ?それは恐怖である。ゆえに神に素直に申し述べた、ぼくはヨブのような人生を歩むことはムリです、主の祈りでも、試みに会わせないでくださいと祈れとあるのです。ぼくの人生は結局安息と喜びに常に満たされているのだ。目の前に苦難と見えることが起きても、ぼくは歯を食いしばることはない。ただちに主に助けを求める、するとすぐに救い出されるのだ(1Cor 10:13)。
3 これはジーザスの苦しみと十字架を無効にすることである!
4 念の為に言っておくが、医学を否定しているのではない。医学は一般恩恵、フェイスの有無によらず誰もがそのメリットを享受できる。神の癒しは特別恩恵。それはただフェイスによる。問題は「医学>神の言葉」の不等式にある。
5 「悔い改め」なる単語もよろしくない。それは後悔することではなく、マインドの方向転換。自分から神へと向き変えることだ。あるいは初期設定を再設定すること。一度自分の生きるマトリクッスをクリアにして、神のマトリクッスにシフトすることである。直訳すると「思い改め」である。

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