哀悼:西部邁-自己救済追及の果ての自己美学的自裁死

元々、10月22日に決行するつもりだったとか・・・。西部氏の語りは面白いのだが、またその気持ちもよく分かるのだが、どうも自己脳内無限ループ・マトリックスに落ち込んでいる感が否めない。結局、彼は何を基準として、何をどうしたかったのだろうか?

理系オツムでは、社会にしろ、生体にしろ、システムを分析する場合、一定の評価関数を設定していくつかのパラメーターの相互関係をモデルとして構築し、パラメーターをあれこれいじって、そのシステムの評価値を最大(あるいは最小)にするようなシミュレーションを行う。これでそのシステムを制御するにはどのようなパラメーターの設定値が最適かといった手順を踏むのだ。

文系のオツムはどうも評価関数もよく分からないし、システムの構造やパラメーターも見えてこない。ひたすら自己のエモーションに基づいて言葉をいじっているだけのような感じなのだ(すみません、怒らないでください)。なんと自身で言っている。40年の思索の結論:言論は虚しいと。

死の直前の発言。なんか、生気が抜けてしまった感じだね。「単純な模型のようなものが大量に流行するアメリカ流の近代化・大衆化に対する批判を差し向け・・・」って、先のぼくの理系オツムだね。彼らから見ると理系のモデル(模型)は単純過ぎるわけ。理系はなるべくパラメーターの数を減らして、単純化したいわけ。ここに理系と文系の間にバカの壁が立ち塞がるのだ。

今回の自裁死は彼の美学だったことは分かるのだが。ある種、三島的だが、マッチョじゃなかったので、いかにも老人性欝の自死みたいな感じだ。自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとする自己救済追及(もがき)の究極的末路かもしれない(髪の有無は論じないこと!)。

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