1ペテロ3:18は単なる「身代わり」を意味するのか?


先にこの聖句について、邦語訳の「身代わりに」は意訳であると指摘した(☞キリストは私をオーバーライト(上書き)したワンショット@YouTube)。これについてダビデなる方が異議を唱え、Dr.Lukeのギリシャ語の文法的読み違いであり、Dr.Lukeには私的解釈をするべきではないとのペテロの言葉を送る、と言われているとある方が教えて下さった。

ざっと拝見したが、いかにもニッポンキ業界福音派(?)のオツムのマトリックスに住んでおられる立派な方のようで、普通こういった絡まれ方をされる場合、スルーするのが私の基本姿勢なのだが、ここはとても重要な聖句なので、先の記事に改めて補充しておく。

彼は、前置詞”υπερ”が属格の”αδικων”を支配するので、その意味は”in stead of”で「身代わり」だとするわけ。いかにも受験英語のパターン学習をされたかのような感じではあるが、とても良い問題提起となっている。”υπερ”は確かに二格(属格:日本語的には「~の」)と四格(対格:日本語的には「~を」)を支配し、二格の場合は「~のために、~の代わりに」と訳し、四格の場合は「~の上に、~を超えて」と訳すことにされている。が、これはあくまでも「公式」の話。

例えば、Pulpit Commentaryでは―

The preposition used in this clause (ὑπέρ) does not necessarily convey the idea of vicarious suffering, as ἁντί (Matthew 20:28Mark 10:45; comp. also 1 Timothy 2:6) does; it means simply “in behalf of,” leaving the character of the relation undetermined; here the context implies the particular relation of substitution (comp. Romans 5:6; also St. Peter’s description of our Lord as “the Just,” in Acts 3:14).

“υπερ”は”αντι”のような「代理としての苦難」の意味は必ずしもなく、単に「~のために」の意味であり、その関係性は定義されていない。が、文脈からみると「置き換え」の意味が示唆される・・・と、私が指摘するとおり、「身代わり」は意訳であることを指摘している。

この格のイメージがとても重要なのだが、いわゆる主格(一格)を「主語」、属格(二格)を「~の」、与格(三格)を「~に」、対格(四格)を「~を」と公式化すると受験英語的に機械的に公式を当てはめるだけになるわけ(さらに聖書ギリシャ語では呼格がある)。ここで

・一格:主語、同一性を表す
・二格:距離感がない近い関係、融合性を表す
・三格:相互的関係性、伝達を表す
・四格:一方的関係、距離感を感じる対象、目的

のイメージが大切。前置詞をイメージでとらえる必要があることは英語でも言えることだ。特に、二格は距離感がない融合性をイメージすることを頭においてほしい。

さらに重要なのは、邦訳ではここを「正しい方が悪い者たちの身代わり」とするのだが、原文には定冠詞がない点。”δικαιος υπερ αδικων”、英語では”just for unjust”。つまり「不義のために義が」となる。かくして二格を支配する”υπερ”、その原義は英語では”over,hyper”、独語では”uber(ウムラウトは略)”、いずれにしても「上に」の意味であり、それが接触・融合しているイメージを形成する。だから、Dr.Luke的には「オーバーライト」となるわけ。義が不義をオーバーライト(上書き)した。

そもそも、ちゃんと記事を読んでほしいが、私も身代わりの側面を否定するわけではない(☞十字架とは[1] … Continue readingが、重要なのは、古いもの(不義)が新しいもの(義)により書き換えられた事実なのだ!

キリストにある者は新しい創造(ニュークリーチャー)。見よ、すべてが新しくなった(2Cor 5:17)。単なる身代わりとするから(これは法的側面)、私たちは罪ゆるされた哀れな罪人に過ぎない~というニッポンキ業界のボクシたちの説教に堕するわけ。まあ、その世界に住みたい向きはご自由にどうぞなのだが・・・。この「新しい」は”kainos”、それは年齢的な意味(これは”neos”)ではなく、本質的にフレッシュであるの意味だ(Strong)。

旧約でも犠牲となる動物に祭司は手をおく。これは犠牲と自分が同一視・一体化されることを意味する。動物の死は自分の死なのだ。キリストが裁かれて死なれたとき、私も裁かれて死んだ。そしてキリストの復活においても私も復活した。それは不義が義にオーバーライトされ、新しい創造である。

YHWHエロヒムは新しい種属を生み出されたのだ。十字架のみわざは単なる法的立場としての無罪宣告ではない。古い私が死に、新しい私(霊的存在)に置き換えられたこと(☞十字架ってなんでしょう)。その意味でPulpit Commentaryが指摘するとおり、”substitute”でもあるわけ。これで単なる「身代わり」ではないことはお分かりいただけたかな[2] … Continue reading

というわけで、ギリシャ語やヘブル語を当たるのも、単に語学オタク化して、脳内空転するのではなく、日本語マトリックスから解かれて、霊のサブスタンスそのものに触れることが重要なのだ。表面的に言葉を弄ぶことは、西部氏と同じ結論を招くだけ:弁論は虚しい、と。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)

オツムの空転的マトリックス(キリスト教神学)を離脱して、霊の領域に入り、その豊かなサブスタンスを享受すること。これがフェイスであり、クリスチャンの特権なのだ。聖書は生命現象の書。フェイスはスーパーナチュラルなシックスセンスである。覚醒した者は幸いである。

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1 こういったノゾキ穴から見た光景だけで鬼の首を取ったように論じる輩が多過ぎる、ニッポンキ業界には。これで反論されるとさらにいきり立つのだが。
2 なお、ダビデ氏は、ガラテヤ2:20やマルコ11:22などに関して、「キリスト信仰」や「神信仰」ではなく、「キリストに対する信仰」また「神への信仰」であると、なぜかこだわっておられる。またDr.Kさんにもいろいろとからんでおり、Dr.Lukeと混同してる節もある(苦笑)。ギリシャ語の知識があるのでプライドが疼くのかもだが。推測するところ、おそらく私たちの関与、自由意志の関わりが必要だ、と主張されるのだろう。これについては例の「カルバンVSアルミニウス」論争や、半ペラギウス説がどうのこうのとなるので、ここではスルー。これは以前に再建主義の富井氏と対話した際に指摘している。さらに私のプロテスタントのいわゆる「信仰義認」の誤りの記事についても異議を唱えておられるが、これは不毛な論争になるのでスルー。霊のサブスタンスを得ていないと単なる言葉上のやり取りになるので・・・。

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