フェイスはポータル・ジーザスにより二つの領域を往来する

イエスは言われた、羊は門であるわたしを通して出入りする、と(John 10:7-9)。どこと、どこを? 前にも指摘したが、私たちはこの世の者ではない(John 17:14)。物理的時空間において、自然法則により支配されている存在ではない! 確かに私たちの血肉はその法則に縛られている。が、私たちの本質は肉体すなわち物質ではない。霊である。神から生まれるものは霊である(John 3:6)。

私たちは神のDNA(種)をインヒュージョンされ、新しく生まれた生命体(1John 3:9;James 1:18)。つまりニュー・クリーチャー(2Cor 5:17;Gal 6:15)。新生命体。その生息場所は霊的領域である。私たちはキリストともに天に座している(Eph 2:6)。血肉は天に入ることはできない(1Cor 15:50)。Are you with me? 私たちがこの物理的肉体の五感によって感知できる領域にのみとどまるのであれば、それは天の領域に生きることではない。それは肉にすぎない。

私たちはアダムにある時代の経験によって物理的時空間の法則を、たとえ物理法則の難解な数式を知らずとも、感覚的に知っている。私たちが二足歩行をするための微分方程式はどれほどに複雑なものとなるであろうか。しかしだれもが何気に歩く。これが肉体のいのちの能力である。

同じように、霊的領域において複雑な真理は知らずとも、霊が経験的にその領域の法則を理解する。それはフェイスの法則(Rom 3:27)。いのちの御霊の法則である(Rom 8:1-3)。その領域のリアリティー、サブスタンスをこの五感の領域に現出させること、これがフェイス(Heb 11:1-3)。

そのためには語ること。預言の霊は預言者に服する(1Cor 14:32)。それはイエスの証(Rev 19:10)。預言とは神のことばを預かって語り出すこと(☞預言とは預言の霊的機序)。イエスも自分が語る言葉は御父のことばであると言われた(John 14:24)。彼は預言したのだ。

今、私たちのうちに住まわれる御霊はイエスのことばを受けて、私たちに伝達する(John 16:13-14)。それは霊的バイブレーションとして私たちの霊に共鳴する。フェイスは霊である。そのバイブレーションを語り出すのだ。自分のオツムの何かを語っても何も起きない。いわゆる聖書をアナウンサーが朗読しても何もわざを証しない。今、ここで、神の霊的波動を受けること。そして語り出すこと。これがまことの預言。

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13

この時、次の言葉が成就する。

このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11

この「言葉」はdabar。メッセでも語ったが、へブル語のdabarはmatter、実質、実体という意味だ。箴言に

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2

とある「事」もdabar、すなわち言葉だ。神の言葉は隠されている。神の国はだれかれに明らかにされることはない。探した者、そして見出した者がその実質、サブスタンスに与ることできる。神の国はミステリー、奥義なのだ(Matt 13:11)。

物理的領域と霊的領域の狭間に生きる私たちは、ジーザスというポータルを通して両者を往来し、私たちのうちにすでに到来している神の国の実質、dabarを探り、それを見出すこと。これがサブスタンスを掴むこと。信じることとはまさにサブスタンスをゲットすることだ。そして信じたら物理的領域へと語り出す(2Cor 4:13)。語れば、それはなる!

私たちは肉にある者であるが、肉に従って生きるものではない(Rom 8:4;2Cor 10:3)。霊に従う者。霊の領域を物理領域に現す者だ。このとき神は私たちの唇の実を創造される(Isa 57:19)。かくしてそれは天になるとおり、地にもなる。神の国は地に降りてくる。究極にはエクレシアの完成である新エルサレムは地上に下るのだ!

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