AD70年に携挙が起きたと再建主義者―携挙はいつ起きるのか―
いつもの再建主義の富井氏の論、AD70年に携挙があった。それは当時のクリスチャンの一部であり、救いの初穂であると・・・。うーむ、かなり苦しいと思うが[1] … Continue reading。
2.
未来派の解釈は間違っている。
なぜならば、パウロは紀元1世紀に生きていたテサロニケのクリスチャンに対して「あなたがたが生き残っている間に起きる」と明言しているからである。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・15-17)
もし、このパウロの発言が成就しなければ、パウロは彼らに対して嘘をついたということになってしまう。
しかも、「私たちは主のみことばのとおりに言います」と言っているので、神からの直接の言葉が成就しなかったということにもなる。
また、その外れた嘘預言が、聖書の正典の一部となったということにもなる。
携挙は紀元1世紀にテサロニケのクリスチャンたちに文字通り起きたのである。
3.
携挙は、文字通り起こり、テサロニケのクリスチャンたちは、エノクやエリヤのように、文字通り生きたまま紀元70年頃に昇天した。
ただし、携挙はテサロニケのクリスチャンたちには起きたが、当時のクリスチャン全員に起きたわけではない。
もし全員に起きたら、地上にクリスチャンはまったくいなくなってしまう。
信仰はどのように継承されたのか。
福音は、宣教によってのみ伝えられる。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1・21)
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10・14)
クリスチャンが全員いなくなったら、福音を伝えることができず、後継者が育たない。
聖書には携挙が全員に起きると述べていない。
携挙の時期については、再建主義はおいて、プレミレの立場では、ダニエル書の70週の預言の最後の1週(七年の艱難期)の前、中頃、後期とする説がある[2] … Continue reading。前艱難携挙は故人となったChuck SmithやTim Lahayeあるいは現存のHal Lindseyが有名である。そしてクリスチャンの間できわめてエキセントリックな議論が交わされるテーマでもある。極私的には彼らの説は必ずしも採らないが、希望観測的にはそれを願っている。
英国Kingdom Faithも終末論にはさほどフォーカスしない。なぜなら、<今・ココ>でフェイスに生きることに集中しているからだ。実はすでにクリスチャンは天の座に上げられている!
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:4-6
このリアリティーに生きている延長線に肉体の携挙と変貌があるわけ。だから、おそらく内的経験としては今もその時も何ら変わらないのだ(深さと豊かさは異なるであろうが)。携挙を何か逃避的に待ち望む人はすでに敗北スピリットであるゆえに、レフト・ビハインドであろう。
というわけで、キ業界のこのようなかまびすしい議論とは一線を置いているが、一応私の青写真は持っている。ご参考までにどうぞ。
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