意識の扱い方―キリスト者と禅者の類似性と相違性

昨今、ニッポンキ業界でも仏教は聖書の影響があるとか、空海はクリスチャンだったとか言われている。確かに似ている部分もあるが、そもそも仏教は礼拝対象もないし、ブッダ自身が自分を礼拝するなと厳命しているし、葬儀などに関わってはならないとしている。仏教は元々、徹底した認識論なのだ。

たとえば、「色即是空」などは現代の大脳生理学とも通じるのだ。つまり色は大脳が作り出すクオリアであって、その本質は波長の異なる電磁波である。物理的実体として色があるわけではないのだ。仏教はそれを無抜いている。そこで現代物理学者もこのようなサイトを設けることになる。

さて、前にFBで流れてきたこの記事にちょっとコメントした。

このBlogでも何度も指摘しているが(☞過去ログリスト)、道元は『正法眼蔵-現成公案』にて書いている:

仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

禅においても「善と悪」や「生と死」の二元論の価値判断がいわゆる煩悩であるとし、その意識の中核たる自己を意識しない境地が悟りであるとする。パウロのロマ7章の葛藤も、律法に示された善と悪の基準に従って善を行おうとすればするほどもがくわけだ。その臭覚には自己がある。ついに彼はロマ8章でいのちの御霊の法則に乗ることを知り、その葛藤から解かれる(Rom 8:1-5;☞メルキゼデク系祭司制度)。

禅を世界に広めた鈴木大拙も、イエスは覚者(禅者)だとしつつも、自分は聖霊というものが分からん、と告白している。ここにキリスト者と禅者の似て非なることが分かる。両者の同じ点は、自己(=自意識)を忘れること・離れることにおいては同じ経験であるが、致命的な違いはいのちと法の次元の違いにある。禅者はあくまでも旧創造のアダム系の経験、われわれは旧創造のいのちではなく、新創造のいのちを得て、その新しいいのちの法に任せて生きる者たちだ。イエスは、自己を否め、と言われた。これは自己疎外ではない。自分から意識が離れること、つまり道元の言う心身脱落することだ。

すべての苦悩や葛藤は自意識から生まれることは誰もが納得であろう。善悪を知る知識の木の実を食べたアダム系人類の宿命だ。イエスはその旧人類を終わらせ た! そして復活し、キリスト系の新しい人類を生み出したのだ。仏教の救済は自己からの解放のレベルまで、残念ながら新しい創造はどんな修行をしても得られ ないのだ。それはGodのみが成し得るスーパーナチュラルな現象である。詳細はこちらを参照されたい:

仏教が聖書の影響により形成されたとは極私的には考えていない。が、一般啓示としての認識論とであるとは思う次第である。

参考☞信心銘にいわく、至道は唯だ揀択を嫌う

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