聖書の矛盾点は高次元から見ると解ける-キリストは4次元立方体

聖書には一見すると種々の矛盾点が散見する。すでにメッセでも語っているが、たとえば香壇の位置。出エジプトでは聖所にある(至聖所の幕の手前;Exo 30:6)が、ヘブル書では幕の後ろつまり至聖所だ(Heb 9:4)。ここに旧約と新約のドラスティックな相転換を見ることができる(☞幕屋の秘密)。

さて、きわめて初歩的な質問であるが、ジーザスが十字架につけられた日と時刻はいつでしょう? なんだ、金曜日の朝9時から午後3時まででしょう・・・がいわゆるキリスト教徒の答えであろう。しかし、事はそう単純ではない。

共観福音書では、その日は過ぎ越し[1]Pesach。このヘブル語の意味とピクトグラムがまた深いのだ。の準備の日と除酵祭の第一日であると記録されている(Matt 26:17;Mark 14:12;Luke 22:7)。それはユダヤの日付でニサンの14日。そこでニサン14日の夜、いわゆる最後の晩餐(=過ぎ越しの食事)をとられ、15日の深夜捕縛され、夜が明けてから裁判にかけられ、金曜日の9-15時に十字架につけられ、それは安息日の準備の日であった(Mark 15:42)。そして葬られニサン17日の早朝(日曜日の朝)に復活された。つまり十字架刑はニサンの15日と読める。

ところがヨハネを見ると、ジーザスを総督官邸に連行した者たちは過ぎ越しの食事を汚れないで摂るために官邸に入らなかったとある(John18:28)。つまり過ぎ越しの食事の前だ。さらに十字架の日は特別の安息日(ニサン15日)の準備の日であり、遺体をそのままにすることのないように足を折ろうとしたが、すでにジーザスはこと切れていたとある(John 19:31)。すると、これはニサンの14日になる。

うん? ジーザスも弟子たちも最後の晩餐をしたことは共通しているが、それっていったい何だったのか? 過ぎ越しの食事とすれば共観福音書とヨハネ福音書で矛盾が生じるのだ。はたしてジーザスの十字架刑はニサン14日それとも15日?

さて、ここでこれらの証言をどのように突き合わせていくべきか。それとも聖書の記事は適当だから、おおまかなレベルで理解すべきなのだろうか? さらに主の復活は初穂であるから、初穂の祭り(ニサン16日)との関係は? はたまた出エジプトでマナは6日目には二日分が降ったのだが、それとの関係は?[2]マタイ28:1の安息日は複数形であることに注意すること!これも邦誤訳だけでは理解できないことのひとつだ。

・・・というわけで、今週はこの謎解きにかなり楽しい時間を費やしました。かなり面白いことが発見できたと思いますが、次回のメッセでご披露するつもり。聖書は先入観や今の時代感覚で読むとまったく理解不能。一枚の平面上で見るから矛盾が出るのだが、次元を上げるとキレイに解ける[3]これもマトリックスの違いによるのだ(☞マトリックス・シフテド)。。イスラエルとエクレシアの関係もなども同じ平面上で見ると置換神学などが生まれてくるわけ(☞教会とイスラエルの関係について)。

次元を上げよ! 例えば、平行でない二本の直線は同一平面上だと必ず交わるが、空間においては交わらないように配置できる(ねじれの位置関係)。聖書の一見矛盾する事も、これと同様に次元を上げることによってきれいに理解することができるのだ[4] … Continue reading

パウロは言う、キリストの愛の長さ高さ深さを知れと(Eph 3:18)。つまり4次元だ。至聖所(神の臨在の場)は3次元立方体(完全立体)だったが、キリスト(神の臨在そのもの)は四次元の立方体[5] … Continue reading。数学的には超立方体というが、これを3次元で展開するとどの四方から見ても十字架となる。十字架は神の愛と義という一見矛盾するものを矛盾なくに証しする場である[6] … Continue reading

一般に、矛盾とかジレンマとは二つの要素を同じ平面上に乗せることによるのだ。聖書を理解するには3次元空間ではなく、神の次元から見る必要がある。神の視線をもって見れば、すべての事は、たとえば人生の葛藤や問題もきれいに配置され、むしろ美しくすら見えるようになるだろう。

 天が地を高く超えているようにわたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。-Isa 55:9

51vote
Article Rating

References

References
1 Pesach。このヘブル語の意味とピクトグラムがまた深いのだ。
2 マタイ28:1の安息日は複数形であることに注意すること!これも邦誤訳だけでは理解できないことのひとつだ。
3 これもマトリックスの違いによるのだ(☞マトリックス・シフテド)。
4 聖書は実に数学である。たとえば153匹の魚とか、創世記1章1節にはπが、ヨハネ福音書1章1節にはeが暗号化されている。これらふたつは宇宙を記述するための基本定数である。さらに\(-e^{i\pi}=1\)などは父・子・聖霊なるYHWHを表していると言える(☞iPAIの覚醒)。
5 新エルサレムは一辺12,000スタジオンの立方体。それは小羊の花嫁であり、神の臨在そのものだから神殿もなく、それ自体が神の栄光で輝く。それはエクレシアの完成した姿だ。文字通りの都市なのどではない。都市が小羊と結婚はできないでしょう。
6 神は愛であるゆえに人を裁けないが、裁かなければ神の義に抵触する。愛と義は両立し得ない? あるいは神がすべてを定めているのであれば(決定論)、人が何をしようが(自由意志)無意味となる。神の予知と人の自由意志は両立し得ない? ・・・といった神学論争のテーマは次元が低い議論なのだ。

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

Subscribe
Notify of
guest

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
Translate »
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x