神学スルメ論-それはバカの壁を構築する

解剖学者で『バカの壁』の著者養老猛司先生は「解剖学はスルメを腑分けして生命をとらえようとするもの」と喝破している。つまりいくら死体を解剖しても生命そのものを理解することはできないと。サイエンティストは自分がしていることの意味と限界を相対化して認識しているのですね。

同様に神学などもスルメだ(神学者のみなさま、相対化を御霊による忍耐にあってお願いします・・・)。キリストと言う生けるお方、神の実質(サブスタンス)に溢れた方、いのちそのものなる方、ダイナミックに<今・ここ>に躍動される方を、人間の論理・言語と言う平面上に投影したものが神学。それはオツムのマトリックス。そこにはすでにいのちはなく、しかもその平面上でケンケンガクガク、本質的にナンセンスなカルヴァンとアルミニウスの論争、ラッシュドゥーニーはああ言ってるからモーセ律法を復活して石打刑を行え・・・。しかもこのスルメ同士の間には高いバカの壁がそびえる。

自分の神学を相対化し得ず、その中にどっぷりと飲み込まれている神学者たち。かくしてかつては処刑までもし合ったわけだが・・・。まあ、ある意味神学は人間の愚かさの結晶とも言えるわけ。しかもその愚かさに気がついていない愚かさ・・・。現に佐藤優氏は次のような発言をされている(☞神学部とは何か):

神学がいかに「虚学」であるかを次の二点から説明したい。
一点目は「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。
二点目は「神学論争は積み重ねられない」と言う神学の性質についてである。

それでも神学は「役に立つ」のだそうだ。それは、人は死ぬときに「自分の人生は何だったのか」と考えるが、神学はそのときへの備えになると。なるほど。ならば葬式仏教もそのときへの備えになるわけだ(笑)

で、彼の神学生時代の話から、神学のひととおりの知識を解説し、ドストエフスキーなどの文学や哲学と神学の関係、またニッポンキリスト教の牧師様が誕生する過程、そしてニッポンキリスト教の現状を分析し、彼は結論する。

日本のプロテスタント教会の10年、20年後を考えた場合、経営面から見る限り今のままではおそらくもたないだろう。教会も相当数淘汰されるだろうし、牧師も現在のような数は不必要になってくるだろう。
・・・
現在、なぜキリスト教が日本で調子が良くないかということについて、率直に言おう。教会に行っても「救われた」と実感できなくなってしまっているキリスト教徒が増えているからだ。
・・・
それから、現実に存在する教会の人間関係がわずらわしく感じられることが多い。
・・・
先輩である魚木忠一は・・・「触発」というキーワードで、キリスト教を理解しようとしたのである。そして日本においては、「日本類型のキリスト教」が必要だと言う。「日本的キリスト教」ではだめなのである。日本基督教にならないといけないと言ったわけだ。・・・その伝統を私は継承していきたいと思っている。

この予言はまことにそのとおりになっている。佐藤氏は日本固有のキリスト教が必要だと言われるが、すでにニッポンキリスト教なるものがあるではないか。日本語マトリックスによる虚像の体系。スルメ化したボクシたちの凡庸な平板な説教。聞くほどに欝々化される。ある方が次のような証を下さった:

10年前からひきこもりがきっかけで教会に行き始め、逆にますます悪くなり、何かがおかしいといつも思い続けながら10年経ちました。

3日前たまたまYouTubeで、ルークさんの動画を見て、英語が多くて僕にとってはとても難しい内容でしたが、『これだ!!』と思いました。内容は理解できないのに、ルークさんの声を聞いてるだけで、ひどい鬱がみるみる良くなっていくのです!! ハレルヤ!

僕はこの10年、日本キリスト教という敵の欺きの中で負のスパイラルの中にいたのです。僕は今まで奪われてきたすべてを絶対にゲットバックします。

多くのボクシは自身が病んでいるケースが多い。そして知らぬ間に欝の霊を拡散しているのだ。正しい教えとか正統神学などを聞いたところで、そこに充満している霊が欝の霊では元も子もない。このようなスルメに囲まれて、その臭いの環境の中で、干からびて、カラカラになってしまった同胞の皆さまには、可及的速やかにこのニッポンキリスト教なるスルメの標本室からエクソダスされることをお勧めする。あの先生、この牧師、この教団、あの同盟、何とか神学、何とか神学者・・・こういった標本室の中に囚われないように。聖書は言う:

子があなたがたを自由にしたのだから、あなたがたはまことに自由な者となる。あなたがたは自由を得るために召されたのだから、ニ度と奴隷のくびきを負わされてはならない。

ならば、自由をもたらさないものは真理ではないのだ。正しさとか正統性で判断しないように。霊的いのちの判断は健やかさによるのだ。

要するに自由を得る鍵はキリストにとらえられること。その御霊にある自由の中で、新鮮な生けるいのちなるキリストをひたすら求める。この意味で私たちは霊的グルメになるべきなのですね。・・・あ、でもスルメで十分なこのギョウカイに留まりたいお人には無理にとは申しませんが。

神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。-1Cor 4:20

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