「パーシャルプレテリズムだけが歴史と終末を矛盾なく、かつ、健全に解釈できる」と再建主義者
いつもの再建主義の富氏氏の論。ジーザスが天と地のあらゆる権威を得ており、現在全宇宙を統治され、われわれも主と共に御座にいる者として統治していることはプレミレの私の立場でもある。その天のリアリティーが地上に現出する時、天におけると同じように地にも御心がなる。
が、現経綸は完全なる主による地上支配の前味わい(foretaste)である。その手付金(deposit)として聖霊が与えられている[1]手付金が聖霊! これ自体がすごいこと。なぜなら聖霊は最も高きエロヒムYHWHそのものであられるから:
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。-Eph 1:14
今、この血肉を持つ状態では物理的に神の国に入ることはできない(1Cor 15:50)。われわれの霊は聖であり、完全であり、それはエロヒムから生まれたエロヒムであるが、体はまだ旧創造である。ゆえにまだおぼろげなのだ(1Cor 13:12 )。ところが富井氏によるとこの旧創造の体のまま千年期に入っているとするわけだ。そして二度目の再臨後、新天新地が開始され、その時に霊の体を得るとするようだ。
われわれプレミレでは、現経綸は異邦人の時代、恵みの時代、いわゆる教会時代であり、異邦人の時が満ちる時に携挙と再臨がある。この携挙の時に体は一瞬にして朽ちない霊の体に変えられる。それから千年期に入り、地上に文字通りの神の国が設立され、われわれは天の領域で主と共に支配する。
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。-1Cor 15:52
イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。・・・さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、・・・最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。-Luke 19:13-19
つまり今回のこのポストで分かるのは、千年期(王国)の理解が私とは異なることだ。私的には千年期(王国)は神の国の一部である[2]正確には御国(The Kingdom of Heavens)とは現経綸の教会時代と次の千年期を言い、それは神の国(The Kingdom of God)全体の一部を構成する。。再建主義的には千年王国に血肉の体のまま入ることが可能であるとする。これは新しい発見である。
tomi 2018/04/27(金) 17:41
パーシャルプレテリズムだけが歴史と終末を矛盾なく、かつ、健全に解釈できる
1.
紀元70年にやってきた新天新地と、黙示録21章以降の新天新地を区別しなければならない。
前者は「暫定的・漸進的な新天新地」であり、後者は「決定的・固定的な新天新地」である。
前者は別名「千年王国」であり、カルヴァンが言うように、それは「戦う教会」の時期である。
紀元70年以降、教会は世と戦い、勢力を拡大してきた。この戦いは、最終的に、第2の再臨において完成する。
それ以降は、戦いのない固定された新天新地である。
この2つの種類の新天新地を区別しないと、教会は戦う必要がなく、伝道する意味がなくなってしまう。
「戦う動機を喪失させる」という意味において、プレ・ミレやア・ミレ、そして、フルプレテリズムは「サタンの有効な道具」になり得る。すなわち、
プレ・ミレ→「どんなに戦っても最終的に反キリストにやられてしまうので地上を変える努力は無駄である。再臨を待つしかない」
ア・ミレ→「勝利者なのは天のクリスチャンだけであり、地上においてクリスチャンが勝利する保証はない。いや再臨まで世の中はどんどん悪化する」
フルプレテリズム→「紀元70年に救いは完成した。すでに勝利したのでこれ以上、教会がやることはない」
2.
黙示録21章以降の新天新地は、血肉の体を持つクリスチャン用ではなく、朽ちることのない「御霊のからだ」を持つクリスチャン用である。
ケネス・ジェントリー博士曰く、
「聖書は実際に、最終審判後に新創造が完成すると教えている(ローマ8:18-23; 2ペテロ3:10-13)。そして、その新創造は、われわれの物理的復活体に適した環境になるとも。さらに、[黙示録]21:1-22:5のイメージの多くは、現在の秩序を超えた完全な状態を描写しているように見える。」
https://postmillennialworldview.com/…
千年王国において、クリスチャンは「血肉の体」で戦う。もちろん、御霊のからだを持つ天にいるクリスチャンの応援はあるが(マタイ17・3)。
しかし、21章以降の新天新地において、クリスチャンは「御霊のからだ」を持ち、被造物も栄光化された状態にあり、朽ちることがない。
クリスチャンも他の被造物も、完成された形になっている。
フルプレテリズムは、今のわれわれが生きている世界がすでにこの「完成された世界」だというのである。
パウロは、「血肉の体」と「御霊のからだ」をはっきりと分けている。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(1コリント15・50)
血肉の体は「朽ちるもの」であり、神の国は「朽ちないもの」である。
だから、神の国を相続するには朽ちることのない「御霊のからだ」が与えられなければならない。
フルプレテリズムはこの2つを混同する重大なミスを犯している。
3.
ケネス・ジェントリー博士は、救いの3つのステージについてこう述べている。
「すなわち、救いは、一世紀にキリストにあって法的に達成され、キリストの地上の働きに続く歴史において歴史的に展開され、キリストが地上活動において目指された輝かしい成果としての仕上げにおいて完全に実現された。」(同上)
これは、常々ミレニアムにおいて述べてきたことと一致する。
(1)キリストの公生涯→法的成就
(2)千年王国→暫定的かつ漸進的な実際的成就
(3)第2の再臨後→決定的かつ固定的な実際的成就
(1)キリストは、「天地における一切の権威が与えられた」と宣言され、法的に世界を征服された。
それ以降、世界の所有権はキリストの手の中に入った。
(2)われわれが生きている千年王国の時代において、神の国は、伝道と教育と礼典を通じて、徐々に世に広がっている。
(3)世界の最終段階にキリストが第2の再臨をされ、そのときに、世界は「御霊のからだ」にふさわしい「不滅の世界」に変わり、歴史が完成する。
4.
パーシャルプレテリズムだけが、歴史と終末を矛盾なく、かつ、健全に解釈できる。
終末論については、ディスペンセーショナリズムなどの「未来派(プレ・ミレやア・ミレ)の理論」も、フルプレテリズムの「欠陥的な過去派の理論」も、人々から「勝利への確信」を奪うので、お勧めできない。
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