祭司は汗をかいてはならない-肉の努力からの解放-

自己を否み~、自我を砕きぃ~。これもクルシチャン症候群を発症する宗教マトリックス。自我を砕いてどうするの? WW2時には日本基督教団は、自分の十字架を負いて、自己を否んで八紘一宇に邁進すべし、とアジったのだ。

砕かれるべきは何気に刷り込まれ、マインドに巣くっている御言葉に反する偽りの思い・考え・価値観・神像や自己像など。それは要塞(☞サタンの要塞について)。偽りこそが敵の策略であると知るべきなのだ。これを真の自分と思い込まされているのだ(☞”わたし”って何でしょう?)。エロヒムの霊を分け与えられた今の私たちはニュークリーチャーであり、真の私とは霊である(☞インナーセルフを強める)。

ただ、困ったことは、すでに聖書自体があまり信用できないこと。今の邦語訳はたいていアレキサンドリア系、特にウエスコット・ホースト版は意図的に改ざんされている。まあ、邦語訳は写本の問題以前に訳が恣意的。間違った訳の上に乗せられて、あーでもない、こーでもないと聖書を弄り回しているのが現状。まこ とに、お疲れさま~だ。今必要なのはデュナミスのデモンストレーション。ジーザスがなしたように!オツムの空転的「信仰」から解放されよ!

神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)のうちにある。ー1Cor 4:20

セレブの後の交わりの際、最近では証が次々になされるので、励まされている。本日も姉妹たちが証されていたが、これまでどうしても克服できなかったことが、何の力も努力も要らず、いつの間にか落ちてしまったと。そう、神のデゥナミスが流れるとき、人間的な力は何ら必要ない。ただ、真実に神の前に出て、留まるだけ。

ペテロが一晩中網を投げても取れなかったのに、主の一声に従うだけで網が破れるほどに大量だった。しかもあの時、ジーザスはネッツ(複数形)を投げろと言われたが、ペテロはザ・ネット(手持ちの網)を投げただけだった(Luke 5:4-7)。もし、ネッツを投げていたら・・・。いずれにしろ、ペテロは何らの労苦も努力も要しなかった。

さらに、主の復活後、同じように主の言葉に従って船の右側にザ・ネット(手持ちの網)を投げると再度大量であった。しかも網は破れることがなかったのだ(John 21:6)。復活の後には手持ちのネットだけで十分、しかも破れることがない!

カギは、主の御声を聞くことだけ。それがフェイスを生む(Rom 10:17)。フェイスとは願うことのサブスタンス(Heb 11:1)。その結果は豊かさだ。この場合、大量の魚だ。

おおよそ、持っている人で聞く者は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。-Matt 13:12(「聞く者は」が落ちている)

努力から、もがきから、粉骨なんとかから解かれよ! 汗を流すな! 祭司の服は亜麻布、神は人の汗を嫌うのだから。

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。-Prov 10:22

頭には亜麻布のターバンをかぶり、腰には亜麻布の短いズボンをはかねばならない。汗が出るようなものを着てはならない。-Eze 44:18