プレ・ミレかポスト・ミレか-ディスペンセイション主義VS.再建主義

二千年前、初臨されたジーザスは十字架で処刑され、三日目によみがえり、40日間地上にて弟子たちに神の国のことを教え、人々の見守る前で天に上げられた(Acts 1:3-9)。そしてその上げられた姿と同じ姿で再び地上に戻って来られる(Acts 1:11)。これを再臨という。その前にエクレシアは地上から空中へと引き上げられ、この瞬間に体は栄光の体に変えられ主と共にいることになる(1Cor 15:52;1Thess 4:17)。これを携挙という。

問題はその時期について諸々の説が展開されている。それは千年期の前か後か。前説をプレ・ミレニアム説、後説をポスト・ミレニアム説、さらに千年期そのものがないとするア・ミニレニアム説がある。ここではア・ミレは省略。

ブレズレンのダービーによるディスペンセイション主義ではプレ・ミレ。つまり千年期前にイエスは再臨され、地上に文字通りのご自身の統治による御国(=千年王国)を設立する。一方、ラッシュデューニーの再建主義によるとポスト・ミレ。つまりすでに現在が千年期であり、全世界が福音化された後、イエスは再臨する。再建主義の旗手富井健氏によれば、AD70年にイエスはイスラエルを裁き、旧経綸を終わらせるために最初の再臨をされ、千年期後に二回目の再臨をされる。

ポスト・ミレの根拠はマタイ24章(Matt 24:34)でイエスが言う「この時代(genea)」とは70年間を指すものであるから、マタイ25章の終末予言はAD70年のローマのタイタスによるエルサレムの裁きのことであるとするのだ。さらにパウロは「主が再び来られるときまで生き残っている私たち」(1Thess 4:15)と書いているのだから、主の(最初の)再臨はパウロが生きている時代であると(そうでないとパウロは偽預言者となる!)。ゆえに黙示録の19章まではすでにAD70年に成就している。理由は黙示録が書かれたのはネロの時代、つまりAD60年代であるからだ、とする。私たちは通常、ヨハネの晩年であるAD90年代と考えている[1]この論点についてはすでに論駁している☞「666の正体は?」。cf.「黙示録は誰に対して書かれたか」&「いのちの御霊の法則vs.モーセ律法

ここで私がプレ・ミレに立つ根拠を二つほど述べておきたい:

1.パウロは「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ」と書いている(1Thess 4:17)。これはイエスの最初の再臨の時、つまりAD70年に起きたと再建主義者は言うわけだが、実はパウロはAD70年には生きてはいない! 彼はAD60年代にネロにより斬首されているのだ。つまり再建主義の立場に立つのであれば、彼の預言は外れたことになる。彼は確かに切迫再臨の感覚を持っていた。が、それは彼においては成就しなかった(再建主義者の立場においてすら!)。つまり再建主義的に言ってもパウロは偽預言者となる。

2.千年期については黙示録20章に書かれている(Rev 20:6)。しかし、黙示録16章にはこうある:

第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。」-Rev 16:4-5

ここには「やがて来たる方」とは書かれてない! つまり第三の御使いによる鉢の裁きの前までには、主は来ておられるのだ(Rev 14:14-16)。それはもちろん千年期のである。再建主義によれば、これが最初の再臨ということなのだろうか? すると二回目の再臨は黙示録20章以下のどこに書かれているのだろうか? そもそも再臨が二回あるって???

とりあえず、この二点を指摘するに留めるが、しかし、同じ聖書を読んでいて、これだけ解釈に差が出る論点もめずらしい[2] … Continue reading。そしてこの違いは、まさに「今、ココ」における私たちの生き方そのものに影響するのだ。

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1 この論点についてはすでに論駁している☞「666の正体は?」。cf.「黙示録は誰に対して書かれたか」&「いのちの御霊の法則vs.モーセ律法
2 一応断ると、私はプレ・ミレに立つが、それは今までのところプレ・ミレを捨てる理由がないからだ。再建主義の主張を詳細に調べても、それを棄却するところまではいかない。もし今後、十分なるエビデンスが与えられれば、私もポスト・ミレに変わるかもしれない。これは数理統計学的思考。すなわちある仮説を立てる。この否定の仮説(帰無仮説)を立てる。帰無仮説の上で今起きている事象の確率計算をして、たとえばそれが5%未満のとき、帰無仮説を捨てる(厳しくすれば1%)。これで危険率5%で当初の仮説を否定し得ないとするわけだ(これを「統計的に5%の有意水準にある」と言う)。
 私の仮説はプレ・ミレ。帰無仮説はポスト・ミレ。聖書と世界の諸現象からポスト・ミレが成立する確率を推定すると、今のところきわめて低い。よって、なお判断ミスの危険(これを第一種の過誤と呼ぶ)はあることを承知の上で、プレ・ミレは否定できないとしているのだ。これがサイエンティストの思考法なのだ。なお、第二種の過誤とは帰無仮説が間違っているのに棄却しない誤りのこと。

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