ルターの嫌ったヤコブ書の真理:フェイスはエルゴンをワークアウトする

救いは律法を行うことによるのではなく、御子イエスを信じることによる。

これがプロテスタントの金科玉条とする信条だ。ルターはパウロのロマ書においてその真理を発見し、自らの葛藤から解かれた。ところがヤコブ書を見ると、人は信仰だけによって救われるのではない、信仰は行いによって全うされると書いてある。これは困った。俺はもう律法を行おうと努力することにはトラウマがあるのだ。そこで、ルターは叫んだ、ヤコブ書は木草藁の書だ!

ここにルターの根本的誤りがある。すでにプロテスタントの過ちについては書いているが、彼らの中心には自己(セルフ)が生きているわたしが律法を行うことによるではなく、わたしが御子を信じることによると。自分がどちらを選択するかと常に問うのだ。つまり律法と信仰を対立概念にしている1)この点、今回のメッセでも語ったが、文系オツムはきわめてナイーブ(=幼稚)だ。概念のレベルですぐ矛盾するとか対立するとか言い出すわけ。自由意志と神の選びの問題、いわゆるアルミニウスVS.カルバンの対立も同様。これについてはかなり前に指摘したが、それを判断することは不可能であるとカオスの理論は教える。量子論の世界では電子などは波動でもあり粒子でもある。波動VS.粒子の対立概念を超えたところに物理的リアリティーは存在しているのだ。。そもそも訳が悪い。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。-ローマ3:20(新改訳)

ここの主語はだれか。「わたしが」である。が、原意は違う。

Because by works of the Torah not one of all flesh will be justified before Him, for through the Torah is the full knowledge of sin.-Rom 3:20(HRB)

律法のワーク(deeds;行い)、原語はエルゴンだ。「わたしが律法を行うことによる」のではない。「律法の働きがわたしを義と認めない」のだ。この点、新改訳は巧妙に訳者のオツムのマトリックスによる誤訳があちこちに散見されるので要注意だ。しかし、御子フェイスがわたしを救う。

even the righteousness of YAHWEH through the faith of Yahshua Messiah toward everyone and upon all those believing-Rom 3:22(HRB)

わたしが中心にいて、律法を行うか、御子を信じるか、という構図がルターのマトリックス。聖書は、律法がわたしを救うか、御子のフェイスがわたしを救うかの構図。主語を入れ替えられているわけ。そこで「わたしが律法を行う」ことにトラウマを覚えているルターはヤコブを拒絶した。

しかしながら、ヤコブが主張していることは違う。ヤコブは言う、自由を与える完全な律法を見つめよと(James 1:25)。ルターは言うであろう、自由の律法?! 律法は俺に苦痛だけを与えたのだ!と。対してヤコブは言う―

信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。・・・ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。-ヤコブ2:17-22(新共同訳)

この「行いが伴わないなら」とある訳を真に受けると、「わたしが行わないなら」と主語が「わたし」になる。が、原意を英語で言えば”So also faith, if it does not have deeds, is dead being by itself.” つまりdeeds(複数形)を持つ/持たないを問われるのはフェイスである。deeds(ergon=働き)を持たないフェイスはそれ自体では死んでいる。もっと言えば、deedsの欠落したフェイス2)これは”フェイス”とカギカッコをつけるべきであろう。しばしば、自分にはフェイスがあると思っていても、実はそれは思い込みに過ぎないことはよくあることだ。だからダビデは思い込みの罪から守ってくださいと祈っている(Ps 19:13)。はあり得ないと言うのである。ここで問われているのはフェイスである。

ゆえにアブラハムのフェイスがそのdeedsと同労し、deedsを根拠として(ek)フェイスが完成された(22節)。この「共に働き;同労する」の原意は”to put forth power together with and thereby to assist”(Thayer)であり、力を与え、それにより助けとなるの意味だ。つまりフェイスはdeeds(ergon=働き)をする力を与え、その助けをし、共に働く。ここの主語は「わたしが行う」のではなく、「フェイスがわたしに行わしめる」のだ。

そもそもフェイスは霊である。「われはナントカを信ず~」といったものではない。それは単なる教条告白(儀式)の式文だ。

「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13

霊は人を生かし、語らせる。それはいのちであり、パワーである。なぜ? それは御子フェイスだから。

生きているのはもはやわたしではない。キリストがうちに生きている。今、肉にあって生きているわたしは・・・御子のフェイスにあって(en)生きるのだ。-Gal 2:20

御子のフェイスは私たちが生きる領域である。そのキリストは今や命を与える霊である。残念ながら、モーセ律法自体はいのちを与えることができなかったのだ(Gal 3:21)。だから不完全であったゆえに新しい祭司制度がたてられた(Heb 7:11☞祭司制と律法について)。

So also it has been written, “The first man, Adam, became a living soul.” The last Adam a life-giving Spirit.-1Cor 15:45(HRB)

この霊は聖霊によりわれわれの霊のうちに伝達された。そしてフェイスもこの霊から生み出される。フェイスには諸々の行いをする命の力が満ちている。ゆえにフェイスを語り出せば、フェイスはわれわれの言うことを聞くのである。

しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。-Luke 15:22

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。-Luke 17:5-6

フェイスはわれわれのしもべとして語り出されたことを成し遂げる。ジーザスはうちなる父の言葉を語り出されるとそのとおりになった。また彼のわざはうちなる父のわざであった。われわれも同じだ。わたしがするのではない。フェイスの霊がわたしたちを通してわざをなすのである。これが恵みである。だから律法(行い)と恵みは対立概念ではない。パウロは言う―

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。-Rom 15:18-19

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10

主語を転換せよ! セルフを離脱せよ! かくして―

生きるのはわたしではなくキリスト!(Gal 2:20)

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1. この点、今回のメッセでも語ったが、文系オツムはきわめてナイーブ(=幼稚)だ。概念のレベルですぐ矛盾するとか対立するとか言い出すわけ。自由意志と神の選びの問題、いわゆるアルミニウスVS.カルバンの対立も同様。これについてはかなり前に指摘したが、それを判断することは不可能であるとカオスの理論は教える。量子論の世界では電子などは波動でもあり粒子でもある。波動VS.粒子の対立概念を超えたところに物理的リアリティーは存在しているのだ。
2. これは”フェイス”とカギカッコをつけるべきであろう。しばしば、自分にはフェイスがあると思っていても、実はそれは思い込みに過ぎないことはよくあることだ。だからダビデは思い込みの罪から守ってくださいと祈っている(Ps 19:13)。