メタモルフォーシスは栄光の中で-宗教の霊から解かれよ-

心の貧しい人たちは、幸いである。
天国は彼らのものである。
(新約聖書・マタイによる福音書5章3節)

心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。(三浦綾子『新約聖書入門』より)

この三浦綾子の文章1)自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。すでに「心の貧しい者たち」の誤訳を指摘しているが、その後をあえて論じるまでもないが、はっきり言う。偽りである! パウロは苦難について何といっているか。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。-Phil 4:12

彼は環境や状況の犠牲者(Victim)ではない、それらを支配したのだ、つまり勝利者(Victor)として。彼はよく肉体のトゲ、つまり病気を抱えていたと言われる。が、病気ではない! 聖書は聖書で解釈する必要がある。トゲは「サタンの使い」だ2)民数記(Num 33:55)に「もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さるとなって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう」とある。。それは彼の働きを阻害する存在なのだ。前にも書いたが、彼は直後にこう言っている:

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。-2Cor 12:10

キーワードは「キリストのために」だ。ここに病気はリストされていない。もし「弱さ=病気」であるならば、パウロはキリストのために病気に甘んじている?・・・意味不明だ。人はいわゆる病気や苦難において造り変えられるのではない。これは三浦綾子文学の世界だ。ヨブもそもそも彼のフェイスには穴が空いており(☞恐れは偽りの霊である-恐れこそを恐れよ!)、そこを敵に突かれたのだ。が、彼はあくまでも自らの義を主張した。これが彼の苦難を深刻化したのだ。

さて、パウロは言っている:

主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます3)この「変えられ」の言語はmetamorphoであり、主が変貌の山で栄光に包まれて姿を変えられたのと同じ単語である。。これはまさに、霊なる主の働きによるのです。-2Cor 3:17-18

すなわち造り変え(メタモルフォーシス;トランスフォーメーション)は栄光の中でなされるのだ4)マリアが受胎告知を受けたとき、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われた。この「おおいます」は”episkiazo”、主が変貌の山で雲がおおったのと同じ単語だ。つまりマリアの妊娠も栄光の雲の覆いの中で起きた奇跡である。。栄光とは”Kavod”、その原意は「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)この個所の訳は共同訳では「喜びを捨て」とあるが、原意は「喜びのゆえに」だ。宗教のマインドによるフィルターがかかっているのだ。。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

主の十字架は主の栄光だった(John 7:39)。神のみわざはすべて栄光の中でなされる。栄光の雲が臨むとき、それは私たちに主の臨在を経験させる。旧約の祭司たちのように立っていることができなくなる(1Kings 8:11)。その臨在のエクスタシーの中で、我を忘れ、聖霊が自由に働かれるとき、自然と癒しも起きているのだ。造り変えも、癒しも、すべてはこの臨在の雲、栄光の中の現象なのだ。どこに自分(セルフ)の信仰がどうのこうのと主張する余地があろうか。そもそも栄光においては自分(セルフ)は消え去るのだから。

三浦綾子に代表されるような宗教の霊の束縛から解かれよ!

References   [ + ]

1. 自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。
2. 民数記(Num 33:55)に「もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さるとなって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう」とある。
3. この「変えられ」の言語はmetamorphoであり、主が変貌の山で栄光に包まれて姿を変えられたのと同じ単語である。
4. マリアが受胎告知を受けたとき、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われた。この「おおいます」は”episkiazo”、主が変貌の山で雲がおおったのと同じ単語だ。つまりマリアの妊娠も栄光の雲の覆いの中で起きた奇跡である。
5. この個所の訳は共同訳では「喜びを捨て」とあるが、原意は「喜びのゆえに」だ。宗教のマインドによるフィルターがかかっているのだ。