フェイスとはもらったポイントを物に引き換えること

朝はジョギング、午前はプール、午後は映画とフィジカルな一日。やはりボディを追い込むことは実に気持ちイイ。しかし、夏だ。

さて、癒しとか繁栄について触れると、このニッポンキ業界ではなぜか微妙な反応が出る傾向がある[1]これはこのテーマにおいては自分が「信じた」とおりにならなかった人が多いのであろう。つまり傷ついているのだ。。ある人は、フェイスによって癒しがなされると書いたところ、異議を申し上げるとして、癒されない人が信仰がないような書き方はけしからんとのこと。繁栄も多分同じような心理によって反対意見が出るのだろう。彼らは言う、現実を見てみよ、クリスチャンでも癒されない人や悲惨な生活をしている人はゴマンといるではないか。彼らは皆信仰がないということなのか、と。ちなみにニッポンキリスト教のスタンダードとも言えるすでに述べた三浦綾子によるクリスチャン像がこれらの反対意見に組みしていると思う。

なぜ癒される人と癒されない人がいるのか、私は分からない。たとえばJoel Osteenも分からないと証言している。事実彼の父親は長年の高血圧で腎臓を患っており、最期は心臓発作で逝った。しかし母親は末期ガンをきれいに癒されている。フェイスがあれば癒される、これは真理だ。が、いわゆる信仰とフェイスとは微妙に似て非なるものなのだ。彼らはオツムでの期待していること、念じていることをフェイスと思い込んでいる。しかしその実、その”信仰”は自分で絞り出したものなのだ。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられたフェイスの量りにしたがって、慎み深く思うべきである。-Rom 12:3

この「量り」とは”metron”、Strongによれば”An apparently primary word; a measure (“metre”), literally or figuratively; by implication a limited portion (degree): – measure.” あえて言えば、「分け前」が適切だろう。フェイスは自分由来のものではない。癒されない人は信仰がないのか、という人は、実は自分由来の”信仰”を頼みとしているのだ。だから信仰がないと暗に指摘されていると感じて勝手に傷つくのだ。誰もそんなことは言っていないし、フェイスは分け前だから、自分が誇るものでもない[2]ここであえてフェイスと信仰という単語を混ぜているが、彼らの言葉通りを再現するためである。

聖霊によって分け前として分配されたフェイスをみんな持っている。それをどう活用するかは、それぞれの霊的成長の度合いによって異なるだろう。フェイスを活用できる人もいれば、無駄にする人もいる。これはちょうど、T-ポイントカードのようなものである。自分がポイントを持っていても、その意味と使い方を知らない場合、その恩恵にあずかることができないまま消滅する。その差はあるだろう[3]世の中には実に巧みにポイントを活用して人生を楽しんでいる人がいるようだ。。分かち与えられたフェイスがある形を構成するようになるとき、それはその時点での固有のサブスタンスとして生きる。ちょうどポイントを具体的な物品に引き換えることに相当する。これが癒しであったり、必要の満たしであったりするのだ。この点、イエスはフェイスを実に自由に活用できたのだ。

では、現実に癒されない時はどうするか。ある人が言っていた、プランBはないと。神の言葉はあくまでも真理。フェイスがあれば癒されるのだ。否、フェイスは癒しのサブスタンス。

いま、フェイスとは願われるサブスタンスであり、まだ観察されていないことの現出である。-Heb 11:1

ゆえに自分の経験や感じ方を否んで(これが自分の十字架を取ることだ)、主の前に出て、主のタッチを受ける。私たちの側が変えられるべきであって、御言葉を変えるのでは断じてない! あるいは自分の経験で御言葉を定義するのでもない。ここにマインドのトランスフォーメーションがなされるべきである。

では、いったいどうなのですか。彼らのうちに信じない者があったら、その不信によって、神のフェイスが無に帰することになるでしょうか[4]通常は、「彼らの不真実が神の真実を無にするのか」と訳されるが、この文脈はフェイスの有無を問うている。。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。-Rom 3:3-4

肉の思いは神に敵対する(Rom 8:7)。それは御言葉を否定すること。それでどうして癒していただけるだろうか。悔い改め[5]この単語もよくない。メタノイアの原義は「思いの向きを変えること」だ。とは犯した罪を白状することだけではない。マインドが深いレベルまで御言葉に従って造り変えられることなのだ。十字架により自分を否むとはこのことである[6] … Continue reading

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1 これはこのテーマにおいては自分が「信じた」とおりにならなかった人が多いのであろう。つまり傷ついているのだ。
2 ここであえてフェイスと信仰という単語を混ぜているが、彼らの言葉通りを再現するためである。
3 世の中には実に巧みにポイントを活用して人生を楽しんでいる人がいるようだ。
4 通常は、「彼らの不真実が神の真実を無にするのか」と訳されるが、この文脈はフェイスの有無を問うている。
5 この単語もよくない。メタノイアの原義は「思いの向きを変えること」だ。
6 よく言われる自我を砕き~というヒステリックな叫びはポイントを外している。ここは自分のマインドに救っているあらゆる偽り(=御言葉に反する)の思想体系や感情や価値観の体系(=要塞)を崩し、御言葉で再構成されることを意味する。

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