メタノイアとは思転回-カミング・トゥ・マイセルフの祝福-

今回のメッセでメタノイアの意味を解いた[1]メタ=沿って、後の;ノイア=マインドを使う。マインドをメタ視線で変化すること、および変化した後のマインドのあり方。。それは後悔することではない。まして悔いて自責の念に縛られることでもない。バテシバとウリアの件で第一子を失った後のダビデを見ればわかる。彼は真にメタノイアしたので、完全にその罪とその結果から解放されたのだ。この単語を日本語で「悔い改め」と訳すことは、極私的にはきわめて抵抗感を覚えるところだ。「思転回」とでも言いたい。

さて、バプテスマのヨハネとジーザスが言われた「悔い改めよ、天の国は近づいた」の「悔い改め」はメタノイアである。一方で、ユダですらジーザスを裏切ったことを悔いている。

そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し・・・Matt 27:3

この単語は「メタメロマイ」である。Vincentによれば、メタノイアは全体的な変化をもたらし、全人格的に前と後では変えられるが、メタメロマイは個々の事柄を悔いるだけ、いわゆる後悔することであると。ユダは後悔はしたが、思転回はしなかったのである。だから自滅した。

神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。-2Cor 7:10

この聖句は、「悔いのない悔い改め」と矛盾した表現である。ちょうど「愛のない愛情」というようなものだ。日本語ではこの二つの単語が訳し分けられていない。英訳(CLV)では

For sorrow according to God is producing repentance for unregretted salvation, yet the sorrow of the world is producing death.

“repent”と”regret”で訳し分けている。前者はメタノイア、後者はメタメロマイである。要するにメタノイアは後悔することではない。ダビデは自身の罪により第一子を失ったが、その後、後悔後悔の人生を送ることはなかったのだ! ただ一度、ナタンの指摘に対して真のメタノイアをもって応答した実は、解放と平安と繁栄であった!(cf. Ps 51:1-10)

思転回(=メタノイア)は祝福を得るための条件ではない;祝福そのものである!-Dr.Luke

この時に大切なのは、自分の記憶を探っても真のメタノイアは経験できない。それはスーパーナチュラルなパーセプション、つまり神の光によって得られる光であるからだ。まさに「メタ」の世界に入り込むこと。

命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。-Ps 36:10

神の光とは「メタ」であり、その中にあってのみ、われわれは光を得て真実を見るのだ。これはきわめて客観的。自分の罪や汚れや短所を冷静に神の視線で見ることができる。ゆえにLITVでは

For the grief according to God works repentance to salvation, not to be regretted. But the grief of the world works death.

とされる。カギは「神に従って」、これを自分勝手に自省とか内省とか修養とか、宗教の儀式めいた実行に落ちると、後悔後悔また後悔。いつまでやってればいいの~と悲鳴を上げる。われわれは一切、自分の内面を取り繕う必要はないのだ。光を受けよ、その中で古い自分の痕跡が見える。そこで口で捨てること。すると新しい自分が見える。それはキリストと同型化されて、完成された自分。神の義とすらされている!

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。-2Cor 5:21

神の義を得るのではなく、神の義となるのだ。この「なる」は「ギノマイ(ginomai)」すなわち”to cause to be (“gen” -erate), that is, (reflexively) to become (come into being)”(Strong)である。存在の問題である[2]新共同訳はここまで訳す勇気がないのか、「神の義を得る」としている。。かくしてわれわれにはこのような約束が与えられている。

心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。-1John 3:20-22

その根拠は、これらの約束、マジで受け取るならば、まことにすごいこと。しかし、これらを約束されたのはJesusその方だ。ゆえに嘘偽りはない!こちらの受け取り方に問題があるのだ。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

これが自分において成就する鍵は何か?ルカ15章の有名な放蕩息子の逸話にこうある。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

この放蕩息子が言おうとしているセリフはかなり策略的だ。しかし父の方は待ち構えて喜んで迎えた。なぜか。彼が我に返ったからだ。KJVでは”he came to himself”とある。口語訳では「本心に立ち返って」。彼は放蕩したとき、自分を離れていた。つまり彼の遊びは彼自身の本心ではなかったのだ。しかし自分自身に戻った。自分の心の真実に気がついたのだ。

主はご自分の所に来る者に、たとえ盲人であっても、必ず尋ねた、「わたしに何がしてほしいのか」と。見れば分かるでしょう、目の見えない人ですよ、主よ、と私たちは考える。が、しばしば私たちは表向きの霊性や格好にかまけて、自分の本心を忘れる、あるいは抑圧する。そしてフリをする[3] … Continue reading。本心でないことを主に求めても、決して叶えられない。主が「何でも」と言われるとき、私たちの取り繕いのない本心を求められる。本心を願い求めるとき、内側が光と喜びに満ち、祈っていてワクワクする。サブスタンスを得ているから、したがって必ずそのとおりに現出すると分かっているからだ。

かくしてかなえられる祈りの秘訣は

coming to myself!
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1 メタ=沿って、後の;ノイア=マインドを使う。マインドをメタ視線で変化すること、および変化した後のマインドのあり方。
2 新共同訳はここまで訳す勇気がないのか、「神の義を得る」としている。
3 これを自己防衛機制と呼ぶ。しばしば人の間で評判が良かったり、憧れる生活をしている人々に不幸や悲劇が起きるのは、この取り繕いをサタンは好むからである。ヨブがその例である。要するに、これは人の間で生きる態度の証明(ホリンゾンタル・ライフ)。われわれは神との関係に生きるのだ(ヴァーティカル・ライフ)。

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