フェイスは天のキャッシュディスペンサーからサブスタンスを引き出すこと

明日のメッセと関連するが、再建主義の富井氏が面白いことを書いているのでクリップしておく。先に私は、フェイスとはポイントを使うようなものであると言った。フェイスは天に蓄えられているポイント(=サブスタンス)を、地上において現象として現すこと(=実体化)である(Heb 11:1)。そのポイントはすでにキリストがなされたわざにより天に蓄えられている。

わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。-Rom 12:3

フェイスは分かち与えられたもの、その度合(メトロン)に従って慎み深く(正確にマインドを使う)評価すべきである、ということである。つまり、ポイントが1,000ポイントだったら、それより多くは使えない。当たり前のことである。この慎み深くを宗教的あるいは道徳的にとらえてはならない。

そのポイントを使うには、正しい手順にのっとって、正確に取り替えたい商品を書き込み、相手方に意思表示をする必要がある。ちょうど役所や法律文書を作成するのと同じである。不備があれば却下される。同じように、私たちもフェイスと使うとき、天のポイントの範囲において、正当な手順を踏む必要がある。これが、すでに何度も繰り返している-

私たちはそれと同じフェイスの霊を持っているので、信じた、それゆえ語るのである。-2Cor 4:13

あなたが事を宣言すると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。-Job 22:28

私たちが何気に語ることに私たちのフェイスがある。私たちのマインドを通して、霊の中のサブスタンスが現れ出るのだ。ゆえにマインドが透明である必要がある。サブスタンスを語り出せ! それは成る。逆に言えば、正当に宣言がなされない限り、それは成りようがないのだ。なぜなら-

わたしは知恵。・・・わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。-Prov 8:12-15

それは知恵による。知恵とは-

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。-1Cor 1:30

内いますキリストこそ知恵である!

私たちは現在、いのちの力によって建てられて大祭司であるキリストをいただき、その血によって批准された新契約に生きる者たちである。その契約書こそが聖書であり、聖書にあるすべての権利を有効に活用するのだ。これが天のポイントを使うこと、すなわちフェイスである。

フェイスはシックセンスにして、スーパーナチュラルなパワーである。闇雲に振り回すのではなく、プロシージャーに則り用いるのだ。ちょうどキャッシュディスペンサーからマネーを引き出すように、内なる知恵に従って。聖霊はそのすべての手順を教えて下さる。これが富井氏が言う、契約的思考である。

聖書は何を言っているのかが基準である

tomi 2018/07/21(土) 08:29 

「聖書は何と言っているのか」が基準である

契約的思考は、われわれを自由にする。

情緒的思考は、われわれを奴隷にする。

たとえば、コーヒーを飲むことを罪と感じる人々がいる。

しかし、コーヒーは、神が人間のために与えられた植物である。

契約的思考をするクリスチャンは、罪であるか、罪でないかを「聖書の文言のみによって」判断する。

なぜならば、クリスチャンは「神と契約を結び、契約の規定にしたがって生きると誓った人々」だから。

契約の規定は、聖書にのみ記されている。

コーヒーを飲むことを罪とする箇所は聖書にはない。

だから、契約的思考をする人は、コーヒーを飲むことに罪悪感を持たないし、それによって他人を非難することもない。

日本社会は「情緒的」である。

一つの型が決まると、それから外れることに「なんとなく」罪悪感を持つ。

クリスチャンでも「情緒的思考」から抜け出せない人は、聖書に明確に禁止されていないことをタブーにし、自分や他人を縛る。

日本は幸いなことに法治国家である。

罪刑法定主義を採用している。

だから、明確に法律に違反していない限り、逮捕されたり、起訴されたり、有罪とされない。

これによって、われわれは、安心して生活できる。

中国のように人智主義の国では、共産党の気まぐれによって、善悪がコロコロ変わる。

「偉大な指導者」と祭り上げられていた人が失脚すると、その人を支持していた人までもが社会的制裁を受ける。

このような国は「液体」である。

常に揺れ動く。

日本のような法治国家は「固体」である。

人が変わっても、法律が変わらない限り動かない。

クリスチャンは、聖書契約にのみ自分の土台とすべきである。

「人の目」や「世の中の流れ」「慣習」などを聖書よりも重視する人は、偶像礼拝者である。

神を信じると決めたら、聖書以外の基準を自分に設定してはならない。

あらゆる社会的な規則を聖書に照らして判断する。

もちろん、人に躓きを与えないために、愛によって自分の自由を制限するのは妥当だ。

しかし、過剰な配慮は「人を恐れる」ことに繋がり、悪魔の罠に陥る。

基本姿勢は「人が何を言っているかではなく、聖書は何を言っているのか」である。