サタンの要塞を落とす-究極のリアリティーとは?

サタンの要塞を落とす-究極のリアリティーとは?

2018-09-22 オフ 投稿者: drluke

現代は不安と恐れの時代。いつガンになり、いつ自己破産し、いつ交通事故に会い、いつミサイルが飛んできて、いつ地震や台風で一瞬にして生活が破壊されるとも限らない。まことに世は一寸先は闇だ・・・と。これが現代人のマインドに巣くっている世界観であろう。だから、あれこれの保険を賭ける。

これはニッポンキ業界も同じだ。不安や恐れ、自責感や絶望感に責め苛まれるクルシチャンが多い。ある人などは「救われる前の方がハッピーだった」と。「神の言葉は人間による神に関する記事である」としたり、「マリアの処女懐妊はローマ兵によるレイプだ」としたり、聖書を近代高等批評の立場から云々するリベラル系も多い。これらは自分の知性を”神”にする輩だ。多分、『使徒信条』を強迫的に告白しなくてはならないのは、本当は信じていないからなのだ。だから自分の良心の宥めのために儀式が必要となることは精神分析の初歩。

それはすべて敵の要塞が私たちのマインド(思い)の中に意識的また無意識的領域に構築されているからだ(☞サタンの要塞について)。ペテロが水の上を歩いたことを信じられないのは、常識と言われる要塞がその御言葉に対立するため。かくしてパウロはこう言っている:

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。-2Cor 10:3-6

思弁とあるのは”logismos=computation;reasoning”、高ぶりは”hupsoma=high place;altitude;a barrier”、はかりごとは”noema=a perception;purpose;the intellect”(Strong)。霊的戦いはすでに主が十字架で勝ち取られている。これはすでに成し遂げられた客観的真理。が、それが私たちの主観経験になることは、神の国が地上に現出するひとつの大きな証拠なのだ。

今、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・土台・権利証)であり、まだ見ていない事の現出(証明)である。-Heb 11:1(私訳)

思い(mind)を敵の要塞から勝ち取り、キリストに服させるならば、解放と自由が得られる。その第一歩は悔い改め。それはヨブのように自分を退けること。マインドのトランスフォーメーションはそこから始まる。

ヨブは主に答えて言った。

あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。-Job 42:1-6

ヨブはこの後、自分を傷つけた友人のために祈ると神はすべての財産を二倍にして戻して祝福されたことはご存じのとおりである。「恐れていたことが降りかかった」と告白したとおり、ヨブのフェイスには元々穴が空いていた(Job 3:25)。それまでヨブは自分の義あるいは財産あるいは才能により頼んでいたのだ。だから常に恐れがあった。ここをサタンに突かれたのである。神はむしろ「命だけは取るな」とサタンを制限し、ヨブを守ったのだ1)なぜ、神はサタンに許可を与えるのか、とする訴えは神を有責者とする。これをポセイドン・アドベンチャー・メンタリティーと私は呼んでいる。本質的には自己憐憫である。ヨブはすでに恐れていた。その良心の隙間を埋めるために日々犠牲を捧げると言う儀式を行っていたのだ(Job 1:5)。儀式は内的な実質の欠如を補償するための取り繕いである。これが病的に現れたのが強迫神経症である。

私自身も告白せざるを得ないのだが、サイエンス的世界観が要塞として存在していたと言える。それをプライドにしていたこともだ。私のかつてのミニストリーは主に内的葛藤からの解放、ロマ書とガラテヤ書が中心テーマだった。だが、癒しやしるし・不思議についてはほとんどノーマーク、あるいは拒絶していた。ある姉妹がLukeさんのかつてのメッセではマルコからの引用がほとんどなかったですね、と指摘した。なるほどそのとおり。

極私的に自然科学の法則を神の御言葉の上に置いてしまっていたことを告白せざるを得ない。つまり創造主なる神は自然科学の法則を超えるお方だが、現代において、神が直接的にそれを逸脱するあり方で私たちの生活に介入されることを信じていなかった、あるいは信じられなかったのだ。ところが神のバイオレントな介入により、自分のボディでこれを体験してしまった。かくして疑いのトマスとされたわけ。つまり、見たから(=経験したから)信じたのだ。

    結局、問われるのは究極のリアリティーとは何かだ。例えば―

    ステージ4のガンで余命3ヶ月の宣告

    VS.

    彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。Isa 53:5

    あなたはどちらを選択するだろうか?

    聖書を「神について人が記録した文書・記事」とかいう人々は論外だが、「すべて聖書は神の息吹き(霊感)による」(2Tim 3:16)と信じている人々にとって、リアリティとはどちら?

    正しい選択をする鍵はわれわれのマインド・セットにあるのだ(Rom 12:2)。ヨブに見られるように、FEAR(恐れ)とはFalse(偽りの)、Expectation(期待)が、Actually(現実に)、Realize(実現する)ことなのだから(Job 3:25)。

    フェイスによって、私たちは、この世界が神のことば(Rhema)で造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 11:3

    この意味でフェイスとは絶えざる選択である。五感の領域の事象を信じるのか、霊的領域のサブスタンスを信じるのか。どちらを信じるのも、あなた次第である。

    わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。-2Cor 4:18

    義人はフェイスによって歩む。-Rom 1:17

    References   [ + ]

    1. なぜ、神はサタンに許可を与えるのか、とする訴えは神を有責者とする。これをポセイドン・アドベンチャー・メンタリティーと私は呼んでいる。本質的には自己憐憫である。ヨブはすでに恐れていた。その良心の隙間を埋めるために日々犠牲を捧げると言う儀式を行っていたのだ(Job 1:5)。儀式は内的な実質の欠如を補償するための取り繕いである。これが病的に現れたのが強迫神経症である。