真理はレムナントに託される
霊的真理も、世の事柄も、何事につけ、大衆化するとオワルものだ。かつてZ会は東大生のふたりに一人が受講したが、知る人ぞ知るマイナーな存在だった。SEGも東大受験生の専門塾だった。が、今や共にメジャー。ところが両者とも質が落ちている。
最近伸しているのが鉄緑会。東大理IIIへの登竜門。かつては代々木のマンションの一室で知る人ぞ知る存在だった。今でも高品質を保っている。これからはどうか。大衆化すると質が一挙に低下する。
はるか昔の代ゼミは職人的講師がそろっていた。が、バブル時代に文系のパー連中のご機嫌取り講師が跋扈して、今や見る影もない(外装は立派だが)。駿台は理系の上を確実にとらえており、確かに大衆化したが、今のところそれなりの質を保っている。下の連中が上の連中にぶら下がる構造なのだ。
モノの流行などもそうだが、はじめは知名度が低く、そのクオリティを見出せる一部のレムナント(少数者)が評価する。すると徐々に認知度が高まり、見る目のない者たちも群がるようになる。これが同調性バイアスだ。するとブレークする。が、その後クオリティをキープすることが困難となり、頭打ちに陥る。こうしてモノの淘汰選択がなされるのだ。
これが次の曲線のようになる。ロジスティクス曲線と呼ぶ。人口などもマルサスの人口論によればこのようになる。この立ち上がりの部分をティッピングポイントと呼ぶが、この後、勢いに単純に乗っているとしっぺ返しを食らう。ブレークしたタレントや芸人があっという間に消えるものだ。(アッポーペンはどうなったのかな?)かくして業界の流行や人気や勢力などは栄枯盛衰、諸行無常。行く川の流れは絶えずして・・・なのだ。
神の真理は常にレムナントに託される。大衆なるものは雰囲気で騒ぐだけ。彼らには見る目はない。大衆が喜ぶようになったらオワリが近いと見てよい。むしろ不人気であることを喜べ。パウロもそうだった(Gal 1:10)。イエスも決して人に自分を委ねることはしなかった。人の心を知っておられたから(John 2:24-25)。真理は見る目を持つ者だけに提供してあげればよい。主も言われたであろう、聖なるものを犬にやるな、豚に真珠を投げるなと。彼らは逆に食って掛かるであろうと(Matt 7:6)。
福音とは、あなたは高価で尊い;あなたの街のお気軽な教会~;どなたでも歓迎します~、といったニッポンキ業界が唱えるようなものではない。それは奥義であり、ミュステリオンである。ミュステリオンの原義は「口を塞ぐ」だ。真理は見せびらかすものではない。むしろそれを得たら、こっそりと楽しむものである(Matt 13:44)。まことに
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。-マタイ22:14
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