イスラエルとエクレシアの関係-再建主義の立場-
いつもの再建主義の富井氏がイスラエルとエクレシアの関係に触れている。彼の視点は2D視点なので、このような解説にならざるを得ないわけ。3D視点で見れば、イスラエルの選びが終わってないことは言わずもがな。
それにしてもあくまでも日本が新しいイスラエルであると・・・。この辺はどうも理解困難な部分ではある。
極私的には、国家としてのイスラエルは神聖にして犯すべからずのイスラエルフリークではないが、アブラハムへの神の祝福と呪いの約束は依然として生きていることを認めるものである(Gen 12:1-5)。
tomi 2018/10/31(水) 11:35
新約時代においてイスラエルは完全に退けられたわけではない
1.
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。(マタイ21・43)
イエスは「イスラエルは反逆に反逆を重ねたので、神の国を取り去られ、異邦人に与えられる」と言われた。
ここから置換神学は「もはやユダヤ人は神の民ではなくなった」と述べるのであるが、これは正確ではない。
なぜならばイエスは「イスラエルを再興する」と言われたからである。
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(使徒の働き1・6-7)
ここで「もはやイスラエルは神の民ではないので、国を再興する必要はない」とは言われなかった。
弟子たちは「イスラエルの民族的栄光」を求めていた。
それに対してイエスは「ノー」と言われなかった。
イエスは「(ユダヤ人の王)ダビデの子」と呼ばれ、「ダビデの国」つまりイスラエル国の王として旧約聖書において預言されたメシアであられた。
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21・9)
そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」(マルコ11・9-10)
それゆえ、イエスを「ユダヤ人の王」として見ず、「ユダヤ人の国を祝福するために来られた」ことを否定することはできない。
紀元70年にエルサレム神殿が崩壊したときに、それは厳密に言うと「イスラエルへの裁き」ではなく「背教的なイスラエルへの裁き」「山羊系ユダヤ人への裁き」なのである。
それは、イスラエルそのものの滅亡ではない。
「イエスを王として受けれたユダヤ人たち」「羊系ユダヤ人」は救われて、ユダヤ戦争の難を逃れたのである。
つまり、クリスチャンのユダヤ人は救われ、栄光のイスラエル国は再興されたのである。
イエスは、紀元70年に、旧約聖書の預言のとおりに「イスラエル国の王」になられた。
それゆえ、イエスがマタイ21・43で言われたのは「イスラエル民族は神の民ではなくなった」「イスラエルは捨てられた」ということではないとわかる。
むしろ、クリスチャンとなったユダヤ人の群れにおいて、本当のイスラエル民族、本当のイスラエル国が誕生したのである。
2.
「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」を「イスラエルはもはや神の民ではなくなり、異邦人こそ神の民となる」と解釈すべきではない。
もしそうなら「すべての異邦民族を弟子とせよ」という大宣教命令の言葉と矛盾することになる。
ユダヤ人が神の民ではなくなったのであれば「異邦人を弟子とすること」はもはやできない。
こういうことである。つまり「ユダヤ人クリスチャンは、神の国の中核となり、異邦民族を弟子とする」と。
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたは、これらのことの証人です。
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24・45-49)
「エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」のである。
ユダヤ人クリスチャンが中心となり、全世界の民族が弟子化される。
すでにユダヤ人クリスチャンが入っている「イエスを王とする真のイスラエル国」に世界の諸民族も入る。
イエスが作られた神の家族に異邦人も加えられる。
この意味において「教会(エクレシア)」は「真正イスラエル国」なのである。
3.
それでは、これまで度々言ってきた「日本は真正イスラエル国である」とどう調和するのだろうか。
日本列島に入った初代教会の人々は、「真正イスラエル国」である「教会」の一部なのである。
初代教会を形成したユダヤ人たちは、全員が日本列島に入ったのではなく、世界各地で伝道し、その国々を弟子化する人々もいた。
その意味において私は「日本だけが真正イスラエル国である」というつもりはまったくない。
世界各地に形成された教会も「真正イスラエル国」である。
この新しいイスラエル国は、民族による垣根を取り除かれた「超民族的なイスラエル」である。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(ガラテヤ6・15-16)なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12・13)
4.
では、真正イスラエル国の一部としての日本が特殊な点はなにか。
おそらく、神はクリスチャン・ユダヤ人たちに国土をお与えになったのだろう。
異邦の諸国民には、それぞれ土地がある。
ドイツ人にはドイツがあり、トルコ人には小アジア半島がある。ロシア人にはユーラシア大陸の北部が与えられた。
ユダヤ人に国土がないというのは「救われた民」としてふさわしくない。
初代教会のユダヤ人クリスチャンのために、安息の地をお与えになった、それが日本なのではないだろうか。
5.
まとめると:
(1)新約時代になって、ユダヤ人は捨てられたわけではない。むしろ、イエスを信じたユダヤ人たちに、神は「再興したイスラエル国」をお与えになった。
(2)この「再興したイスラエル国」には、イエスを主と信じるあらゆる民族の人々が加えられた。それゆえ「再興したイスラエル国」とは「教会(エクレシア)」である。
(3)日本は、再興したイスラエル国の国民であるユダヤ人に対して与えられた安息の土地である。
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