「神は存在論的に三人で契約的に一人」と再建主義者

いつもの再建主義の富井氏の論だ。いわゆる正統神学では同時同在する区別される三つの位格(ペルソナ)が本質において同質(ホモ・ウシオス)とするわけだが[1]理系の人間には別に理解不可能でもなんでもない。量子は粒にして波。これがわれわれの認知の限界であるからそのまま受け取るだけなのだ。。古事記の造化三神を父・子・聖霊とし、アマテラスをジーザスであるとする思考回路もここから生まれるのだろう。

引用

tomi 2018/11/17(土) 21:09

三神論は異端である5

教会は、もしかして「存在論的に一人であり、存在論的に三人」という立場をとり続けてきたのかもしれませんが、それが信条の中に記されていないので、なんとも言えません。

信条に記されているのはただ「神はお一人であり、三つの人格がある」という文言だけです。

これだけですと「契約的に一人で、存在論的に三人」と解釈できるように思えます。

そして、問題は、もし「契約的に一人で、存在論的に三人」が異端的な見解であるならば、なぜ異端であるのか知りたいです。

私は異端となって永遠の裁きを受けたくありませんから。

聖書が「結婚した男女は一人である」とはっきりと述べている以上、「神はお一人である」という箇所を「契約的に一人」と解釈しても間違いではないと思います。

いや、むしろ、「存在論的に一人で、存在論的に三人」と解釈することは聖書から論証することは不可能はないかと考えます。

なぜならば、イエスは「私が去らなければ、聖霊が来られない」と言われ、聖書に「イエスは神の右に座しておられる」と示しているからです。

もちろん神の真理について、有限なるがゆえにわれわれに理解不能であるという側面はあるとは思いますが、聖書は「人間の合理的な理解力に合わせて」啓示されているのですから、もし「契約的合一」という考えによって解釈が可能であれば、そちらを選択するべきであると思いますし、それが否定されると、神学的な探求には意味がないということになるのではないかと思います。

啓示の理解は、歴史を通じて発展します。黙示録についても、理解できなかったことが理解できるようになりつつあります。
カルヴァンの時代のセオノミーや契約の考え方は、その後、聖書研究が進むにつれて発展してきました。

そういう意味で、三位一体論も発展するのではないかと思っています。

 

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1 理系の人間には別に理解不可能でもなんでもない。量子は粒にして波。これがわれわれの認知の限界であるからそのまま受け取るだけなのだ。

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