「神は存在論的には多・契約的には一である」と再建主義者

「神は存在論的には多・契約的には一である」と再建主義者

2018-11-28 オフ 投稿者: drluke

この発言はけっこう重大なポイントかもしれない。

「契約的に生まれた」とは「法的に生まれた」と同義である。

あたかも「養子縁組によって成立した親子関係」のようである。

存在論的に父ではない人が、存在論的に子ではない人を「子にする」のが養子縁組である。

御父と御子の関係は養子縁組の親子関係であると・・・・。聖書にはこうあるのだが。

イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。-John 14:9-11

どうも再建主義ではいのちの関係、いのちの共有という面が開かれていないようだ。これはモーセ律法といのちの御霊の法則の関係にも関わること。また彼は、キリストは昇天し、天におられるが、聖霊が私たちのうちにおられるゆえに、契約的にキリストもうちにおられるとする。これは意味不明である。ジーザスは明確に言われた:

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」-John 14:18-23

御父と御子、そして御霊はエロヒムとしての霊的生命体としてひとつである1)このエロヒムを「神」とか”God”と訳すことが罠になることはすでに何度も指摘している。同時にYHWHを「」とか”LORD”としてしまうこともだ。Dr.Heiserによれば、エロヒムはある霊的領域であるとし、その最も高きエロヒムがYHWH=父・子・聖霊=である。。私たちの霊もエロヒムの霊を分与されたものであり、私たちもエロヒム属としてYHWH家の一員とされた。それは単に法的関係ではなく、実質的ないのちの関係(=霊的DNAの共有)である。中村家に生まれた者は人属としてのいのちを得て、中村家の一員である。それは単なる法的関係ではない。DNAを共有するのだ。もちろん親と子は人格は異なるが、実質的に同じいのちを共有する。聖なる三位格も同様であり、同じエロヒム属としてのいのちをシェアする私たちもその交わりに預かるのである。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。-1John 1:1-3

なぜなら私たちのいのちはキリストであり、神のうちにキリストとともに隠されているからだ。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。-Col 3:3

それは単なる契約の関係ではなく、同質のいのちを共有する関係である。

引用

tomi 2018/11/27(火) 22:10

神は存在論的には多、契約的には一である

1.

「存在論的に誕生した」と言ったら「存在していなかったものが、存在するようになった」ということである。

それゆえニケア信条の「神よりの神」「光よりの光」がもし存在論的にそうであるというならば、それぞれ「存在しなかった神が存在する神から出た」「存在しなかった光が存在する光から出た」という意味になる。

これは「御子は、存在する神である御父から創造された」ということを意味し、当然の帰結として「存在しなかった時代があった」ということを示す。

それゆえ、このことを主張する人は、ニケア信条の「主の存在したまわざりし時あり・・・と宣べる者らを、公同なる使徒的教会は、呪うべし」の規定に該当するので、教会は彼または彼女を除名すべきである。

では、「神よりの神」「光よりの光」は、どのように解釈すべきか。

「御子は御父より『契約的に』発出した」のである。

「存在しなかった時が一時もない御子」が「存在しなかった時が一時もない御父」より「契約的に生まれた」のである。

「契約的に生まれた」とは「法的に生まれた」と同義である。

あたかも「養子縁組によって成立した親子関係」のようである。

存在論的に父ではない人が、存在論的に子ではない人を「子にする」のが養子縁組である。

しかし、法的には「子」であるから、父の遺産を相続できる。

存在論的三位一体と、契約的(または経綸的)三位一体を区別すべきである。

2.

第一位と第二位の神の間には、存在論的に父子関係はない。

存在論的には「同質」「同等」「同権威」「同権力」「同永遠」である。

しかし、契約的(法的・経綸的)には「上下関係」「父子関係」が存在する。

イエスは「わたしは去って行く」と言われ、事実、昇天された。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7)

こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒の働き1・9)

イエスはこの昇天後、現在に至るまでずっと「天におられる」。

しかし、イエスは、弟子たちに「わたしはあなたがたとともにいつもいる」と言われた。

・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)

これは「契約的に」である。

イエスは、存在論的には天におられるが、契約的にはわれわれとともにおられる。

なぜならば、御霊がわれわれとともにおられるからである。

昇天後イエスは「助け主をあなたがたのところに遣わ」された。

それがペンテコステである。

ペンテコステ以降、御霊はわれわれとともに常におられる。

御霊がおられることは、イエスがおられるのと同然である。

なぜならば、イエスと御霊は契約的に一人だからである。

父、子、聖霊は、「法的に一人」なので、御霊がおられることは、イエスがおられることと同義である。

この三位が「存在論的に一人」であるならば、イエスが昇天されたら御霊も天におられる。

父、子、聖霊は、三者とも天におられ、地上にはおられない。

逆に、聖霊が地上に下ったのであれば、父、子、聖霊も地上におられ、天にはおられない。

「存在論的に一人」と解釈すると、聖書の無数の箇所を解釈できなくなる。

「いや、神は空間的にも絶対だから存在論的に一人でも、天にも地上にも同時におられる」というだろうか。

では、なぜわざわざイエスは「わたしは去って行きます」と言われ「助け主を使わします」と言われたのか。

明らかに、御子と聖霊が存在論的に「他者」であるからこそ、そのような表現をされたのである。

4.

これで「神は存在論的には多、契約的には一」ということがおわかりいただけたと思う。

References   [ + ]

1. このエロヒムを「神」とか”God”と訳すことが罠になることはすでに何度も指摘している。同時にYHWHを「」とか”LORD”としてしまうこともだ。Dr.Heiserによれば、エロヒムはある霊的領域であるとし、その最も高きエロヒムがYHWH=父・子・聖霊=である。