フェイス11月22022呪いと裁きの善悪二元論の道から祝福と恵みのいのちの一元論の道へ回帰せよ-聖書と歎異抄の共通項-FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である((彼は経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質は… 続きを読む
フェイス9月202022イエシュアは教団教職制度(ニコライ派)を憎みかつ戦うしかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 この降りて来られた方が、すべてのも… 続きを読む
フェイス5月222021聖も義もフェイスも私由来ではなくキリストご自身プロテスタントは自分をセンターにおいて、私が律法を行うことではなく、キリストを信じることにより救われると説く(☞ルターの誤り)。その中心は自分。ゆえに私の信仰をもっと強めてくださいと求め、また逆境を経た人の信仰は素晴らしいと褒めそやす。ここにあるのは私だ。これをセルフ教と呼ぶ。よってキリスト教徒は常… 続きを読む
フェイス6月272020エネルギー源泉の切り替え-十字架はいのちの交換の場-前回のメッセで「努力が必要」と言われたが、努力は不要とも言っているけど、これはどう理解すべきかとのお問い合わせがあった。明日のメッセで語る内容とちょうどかぶったので、その内容を少しだけ― 小池百合子の動機はすべて自己粉飾にあり、その根底には満たされていない基本的欲求が潜んでいる。マズローの五段階欲求… 続きを読む
フェイス6月182020再建主義者の聖書理解を批判してみるいつもの再建主義の富井氏によると聖書のエッセンスはこうなるようだ。ちょっと検討してみたい。 聖書の中心的なメッセージ 聖書の中心的なメッセージは次のとおりである。 1.アダムは創造されたときに「もし神の命令をすべて守るならば、永遠の命と、被造物を支配する永遠の王になれる」との約束を与えられた。しかし… 続きを読む
フェイス2月122020聖書を日本語マトリックスから解放せよ極私的にはemunah;pistisなども、「信じて仰ぐ」と考えて、「信仰」にしたのだろうと推測する。これでニッポンキリスト教が作られたのだ。これでは「Yahawehのpistis」や「御子のフェイス」などは意味不明となる。なんで神(これもエロヒムに当てはめているが見当はずれだが)が信仰を?とか言い… 続きを読む
フェイス1月212020御子はYahawehエロヒムのフェイスである御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。-ヘブル1:3 「本質」とは”サブスタンス;実体;実質”、「真の姿」は”現出したキャラクター”だ。つまり、御子はYHWHのサブスタンスの現出、である。 いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観測されて… 続きを読む
フェイス3月122019フェイスのエルゴン-ルターの呪縛を離脱せよ-プロテスタントの創始者とされるルターの、いわゆる「信仰義認」の問題点についてはすでに何度か触れている。彼の主張であり、プロテスタントの絶対的ドグマはこうだ:(★)私が律法を行うことによって救われることはできず、御子イエスを信じることによって救われる。根拠は なぜなら、律法を実行することによっては、だ… 続きを読む
フェイス2月122019神のフェイスを持て!-キリスト教マトリックスからの解放-今回の聖書協会の新しい訳では、ヘブル11章1節が「信仰とは願うことの実質」とされているようだ。「確信」から「実質」に変えられたことは進歩であるが、ようやくの感が否めない。このギリシャ語は「ヒュポスタシス」、つまり実体、実質、土台、権利証書。ちょうど当選宝くじ券のようなものだ。それはまだマネーではない… 続きを読む
フェイス11月92018再建主義者の「われわれは法的復活体を持つ」を論駁するいつもの再建主義の富井氏の論。これを読むと彼のマトリックスが理解できる。つまり、クリスチャンは実質的に復活しているのではなく、法的に復活しており、この肉体もいぜんとして血肉であるが法的には復活体であると言うわけ((前から繰り返しているが、私は富井氏をリスペクトしている者である。ニッポンキリスト教に対… 続きを読む
フェイス10月42018御言葉は神のフェイスの実体と告白神の御心においては天地の基が置かれる前から、創造も、キリストの贖罪も(Rev 13:8)((この聖句の「世の初めから」が「ほふられた」にかかるか、「いのちの書に書かれて」にかかるかは議論がある。Alforfdなどはペテロ書(1Pet 1:20)などを根拠に前者にかける。邦訳の永井訳も同じ。))、私た… 続きを読む
フェイス6月252018ルターの嫌ったヤコブ書の真理:フェイスはエルゴンをワークアウトする救いは律法を行うことによるのではなく、御子イエスを信じることによる。 これがプロテスタントの金科玉条とする信条だ。ルターはパウロのロマ書においてその真理を発見し、自らの葛藤から解かれた。ところがヤコブ書を見ると、人は信仰だけによって救われるのではない、信仰は行いによって全うされると書いてある。これは… 続きを読む
フェイス4月72017Dr.Lukeの一言映画評-ゴースト・イン・ザ・シェルトランスヒューマニズムの究極。ブレインだけが人工人体の中で生きる。記憶もオーバーライトされている。しかし人は記憶に自らのアイデンティティを置く。が、真の私とは何によって担保されるのか。作者は言う、記憶ではなく、何をするかだと。極私的には、何をフェイスするかだと言いたい。 記憶喪失者も、私は誰?と考え… 続きを読む