iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
年: 2017年

私はここで何度か言っている、クリスチャンは時間を超えると。つまりタイムトラベルができるのだ。ヨハネやパウロと交わることができるし、未来をここで先取りして経験することもできる。それは私たちは永遠の現在に生きているからだ。その領域は時間と空間を越える。
時空間の中で、忙しい、忙しい、いつ祈りがかなえられるだろう、いつ癒されるのか、いつ、いつ・・・。これが不信仰。が、フェイスはすでに得たと証しする[1]これを聖霊の内的確証などという。☞「信仰と希望について」。たとえ、時系列的にはそれが1年後、5年後に現れ出る事であっても、<今・ここで>、すでに得ている。これがフェイス。
神はこれから何かをしてくださるだろう、ではない。癒しでつまづく人はそこを誤解している。「神は癒して下さるだろう」は延々と失望に終わる。神は癒してくださった!これがフェイス。つまりフェイスとは未来を、今、ここで、経験することなのだ。あるいは今のこの時の祈りにより、未来を変える。いずれにしろ、フェイスは遠くを見るが、それを現在において経験する[2]前著『真理はあなたを自由にする-ファクターXの再発見』においてはこれを「霊的逆算」と言った。。フェイスは永遠のナウの領域の経験である[3]「神は癒して下さったと信じます!」とお題目を唱えることではない。フェイスはシックスセンス。ただ分かるのだ。I KNOW THAT I KNOW. This is IT!!!。
神のわざはすでに天地創世の時に完成していたのだ。神はこの霊的サブスタンスを語り出すことにより実体化される。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3
小羊も天地創世の時にすでに屠られていた。この霊的サブスタンスをキリストはフェイスにより二千年前のあの地、あの時に現出させたのだ。
地上に住む者で、天地創造の時から屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-Rev 13:8[4]邦語訳では、「屠られた」の後に句読点があるが、これは直接に「小羊」にかかるべきである。
われわれも同様に-
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

神をエミュレートする―Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
メタノイアとはもっともシンプルに言えば、God-OSを再インストールし、リブートすることだ。エペソ5:1(Eph 5:1)の邦語訳、「神にならえ」って、そんなことできるわけないでしょうに。それはサルが人マネするようなもの。いのちの次元が異なるのだ。ここの原義はエミュレートすること。空理空論のキリスト教神学などにかまけて人生を無駄にすることなかれ!
十字架とはいのちの入れ換えである(☞十字架と何か@YouTube)。

慣性の法則で物事は一度走り出すと止めたり方向転換するのが困難になる。ゆえに最初の方向付けを誤らないこと。さもないと伝統や習慣、つまりコンフォートゾーンを抜けるには多大なエネルギーが必要になる。で、イスラエルは40年さ迷い、ほとんどが良き地をミスったのだ。
ニッポンキ業界は初期設定がミスっているわけ。だからボロがぼろぼろとね。宗教(=魂の領域)の彷徨で40年はあっという間に経つ。メタノイアの「悔い改め」なる訳語も悪い。ニッポンキリスト教の自責のマトリックスに陥るだけ。悔いるのではない。それはマインドの方向転換。つまり初期条件の再設定である。
神の国は近づいた、再初期設定せよ!(Mark 1:15,Dr.Luke訳)
コンフォートゾーンを脱出してテイク・オフ!

地は形がなくなり、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 -Gen 1:2
バイブレーションというと、脊髄反射的に「ニューエイジだ!」とかのたまうむきもありますが、神学オツムの無知ですね[1] 神学などはいのちのバイブレーションを固定化するだけ。いのちのフレッシュさも、躍動感も喪失する。。メッセでも語っておりますが、創世記1章2節の神の霊が「動いていた」の原語”râchaph”は、「孵化させる」の意味ですが、原義は「振動する」です。つまりバイブレーション。神の霊のバイブレーションにより地球は育まれ、再生されたわけです[2] … Continue reading。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
かし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。-Ps 19:1-4
神の霊のバイブレーションにリゾナンスすること。詩編19編には、神の「響き」は原語で”qav”、すなわち弦であり振動。神のバイブレーションは全地に響く、とあるわけ。神学オツムで動脈硬化して霊の卒中や梗塞にならないように。このバイブレーションに触れるならばボディにもいのちが満ちる。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。-Rom 8:11
フェイスとは神の波動を実体化することである。

聖霊による霊と魂の分離オペ-Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
霊と魂の混同がすべての問題の元凶。霊的感覚を鋭くする道は霊と魂の分離オペ。霊にまとわりつく五感の病変組織を剥離していただくのだ。その時、クリアに神のバイブレーションを受信することができる。

ジョージ・オウェルの『動物農場』ならぬ、人間牧場社会の到来。それはまたカルト社会と言える(☞カルトの方法・統制主義)。たとえばTPPについては米国が脱退した。当時もNHKなどでは関税がどうのこうのしか報道していない。ホント、御用放送局だ。振り返っておくと-
TPPの一番の問題は、一種の不平等条約であること。要するにアメリカ国内では条約よりも国内法が優先されるが、ニッポンではその逆。つまりニッポンの国内法を超えて、アメリカがニッポンに介入できるということ。
これで開国以来、米の対日政策により4回去勢されたニッポンは、究極的に植民地化されるわけ。まあ、中国の特別自治区になるよりはマシかも。ただ、下手すると医療費が盲腸のオペで500万とかなりかねないわけで・・・。要するに寿司屋方式になるのだ。カネのある者は松とね。
ニッポンの1,300兆あるとされる個人金融資産のうち700兆程度はすでにアメリカの国債に充填されている。が、アメリカはさらにむしる意図だ。ドルが暴落すればそれは単なる紙切れ。それでなくともそれは返って来ない、というか返すツモリがない。しかも、もともとその数字は単なる帳簿の上の数字。現ナマはもともとないのだ!日銀の紙幣発行残は80兆程度。信用創造というカラクリ(無限等比級数の公式)で膨らんだだけ。
かくのごとくすべてはフェイクなのだが、国民さまはマインドコントロールされて、その数字を”信じて”いる。が、そのカラクリに全国民が気がついて、すべての預金者が銀行で現金を下ろそうとすると、いわゆる取り付け騒ぎとなるから、その際は預金封鎖。要するに国民には正しい情報を与えず、そこそこの生活とグルメと娯楽(Sports・Sex・Screen)を与えておとなしくオネンネしていてね、というわけ。
で、見ものはニッポンの1,100兆円(簡単に言うと、年収500万の家庭が1億1千万のローンを抱えている状態)、アメリカの1,800兆円の財政赤字をどうチャラにするのか、だが・・・。この辺でキナ臭さが漂うわけ。
情報の遮断と言う点では、たとえば現在、高校の物理では原子核物理を教えない。社会では近現代史を教えない。共に時間がないとのことだが、これは致命的。放射能に関する知識もなし、縄文時代や平安時代がどうのこうのと言っても、今を生きる役には立たない。そもそも歴史が分断化され、大きな流れをつかむことできないのだ[1] … Continue reading
ニッポンがどのような欧米諸国の力学の中でWW2にまで追い詰められたか。東京裁判史観しか提供しないから、ニッポンは悪だと刷り込まれる。私はウヨではないが、普通に考えても、アメリカの誘導策であったことは明らか。原爆も戦争終結を伸ばしておいて、実験データ収集のためにあえて二種類を落とした。これは私の博士論文でお世話になったニッポンの統計学の父である方がGHQと広島・長崎を調査した経験から教えてくれた。文部科学省の指導要領どおりの授業しかできない現状、これも米によるWGIP (War Guilty Information Program) の一環だ。教師自体がMCされている。
とにかく情報を遮断あるいは管理し、カプセル化して、国民をオネンネさせておく。そのような国民はどうなるか。食って、寝て、いい車乗って、いい家に住んで、遊んで、セックスして・・・だけ。「社畜」なる言葉があるが、欧米では「シープル」という。sheepとpeopleの合成語。おとなしく、物を考えず、目先の生活と享楽に埋没する国民のあり方だ。
これからの社会の動きは聖書が予言しているが、現状そのとおりになりつつあるわけで、NWOとNWR。マイナンバーが予告するプライバシーゼロ社会。ジョージ・オーウエルの『1984』のような人間牧場だ。それは獣の刻印の前哨戦。いずれ中東は火を吹くが、その後にくる平和世界が、実は恐いのだ。


これもまことに同意。ウォッチマン・ニーは言っている、「クリスチャンはどれだけ得たかではなく、どれだけ捨てたかによって評価される」と。握りしめると人は卑しくなる。禅では喜捨という。清々しい生き方。主も言われる:
自分の魂のいのち(原語)を得ようとするならば失い、わたしのために失うならば得る。-Luke 9:24
私は再建主義には違和感を覚えるし、富井氏の言う悪魔の教えであるプレ・ミレの立場であり、富井氏からは「異端・カルト断罪」を受けている身だが、共鳴できる点は大いに評価していることは何度も述べている。捨てれば霊的感性も大いに高まるのだ。
tomi 2017/12/25(月) 10:27
握りしめるな
聖書は「問題が起きたら、まず主のもとに行け」と教えている。
モーセは、民衆の反抗にあうと、まず会見の幕屋に行って、神の御許にひれ伏し、御言葉を待った。
神の御許に行かず、直接に民衆に対峙したときに失敗した。
メリバの泉において、神の御心をうかがわずに、直接岩を打ってしまった。
この罪により、約束の地に入ることは許されなかった。
支援を求めるときに、人に直接向かうと失敗する。
たとえば、無心をするときに、直接人に向かうと、相手にサタンが入り、利用されることになる場合がある。
まず神に祈って「必要があります!」と訴えることである。
その後に、神が送ってくださる人から借りれば問題はない。
「あの人がいないと僕はやっていけない」という心の持ち主は、すでに、サタンの餌食になっている。
サタンはその頼られる人を通じて、その人をコントロールする。
正しい心の持ち方は、
「神様、私はあなたにのみ依存します。あの人がいなくなってもかまいません。どうか私が執着しないように心を守ってください」と。
そうすれば、神は、その相手を「正常な形で」あなたに送られるだろう。
何かを握りしめている人は、偶像礼拝の罪を犯している。
それを神に明け渡すとその罪から解放される。
いつでも「私にとって、あなたに捧げられないものは何一つありません」と告白することである。
握りしめているものが多くなればなるほど、フジツボがびっしりついた船のように、霊的な動作と感性が鈍くなる。


FBでのトピから。まずはこの記事。
彼は政府寄りの御用学者。かつて窃盗で逮捕されたが、不起訴。まあ、それは置いといて。その論はB/Sで見て健全だというのだ。たとえば、家計で、左が住居評価額800万+預金200万。右が借金1,000万だったとして、これでプラマイ・ゼロだから「健全」と言えると言えるわけ。が、企業でも流動性不足で黒字倒産する。要するに国は延々と借金返済を先延ばしするだけなのだ。
ニッポンの財政、借金の残高が1,100兆円。一人当たり800万以上。ニッポンに生まれただけで負債を負う現実。それは政府負債であって、国の負債ではないとか理屈をたれる向きもあるが、国民はほとんど知らない。御用学者は「大丈夫だ」とはったりをかますが、この数字は天井知らず。WOWOWの『石つぶて』でも官邸の官房機密費をめぐる刑事たちの奮闘を描いていたが、その存在は誰も知らなかった。まさに「由(よ)らしむべし知(し)らしむべからず」。大衆は無知の中で自分の血を抜かれて衰弱する。
経済を学ぶには経済学者の本を読んでも理解できない。私が経済が見えたのは簿記を知った時。ゲーテだったか、複式簿記は人類の叡智であると。まことに。理系から見ると単なる足し算引き算の世界。だが、その知恵はすごい。対して、ブラック・ショールズ方程式は伊藤型確率微分方式 \(dS(t)=\sigma S(t) dW(t)+\mu S(t)dt\) の解として得られる。それに従えば絶対に損失を出さない(ハズ)のだ。これはちょっと確率論を学べば理解できる。
が、これでは経済を知ることはできない。現にこの学者たちを擁したLTCMは当初は破竹の勢いだったものの、ロシア経済破綻の煽りで破たんした(1998)。生ける経済はこんな微分方程式にハメられないのだ![1] 同様に生ける神も神学などにはハマらない!
極私的には小学校から中学では、読み書き・そろばん、そして簿記を教えるべきと思う。微分積分などは大衆にはほとんど不要。なぜ小中学校で簿記を教えないのか。教えると国家や企業の闇が見えてくるからだ。大衆が目覚めてしまう。貸借対照表と損益計算書さらにマネーフロー表が見えるとその経済主体の実態が見える[2] B/Sについてはこちら。。粉飾も見抜けるようになる。山一證券は「飛ばし」により本体の財務諸表を飾っていたが、これも臨界点が訪れる。知り合いに山一の役付きがいるが、彼は当日の朝まで自社の真実を何も知らず、新聞を手にした奥さんが、「あなたあ~、どうなってるの~」と叫ぶ声で起されたと。
このままだとそう遠くないうちにニッポンも山一のその時を迎えるであろう。世界でもデリバティブの残高が6京円だったか。元々マネー経済は幻想。幻想を大衆が信じてる間は廻る。だから決して目覚めさせてはならない。これが綻びると・・・・。が、それをチャラにする方法がひとつだけあるのだ。それは?
References[+]
↑1 | 同様に生ける神も神学などにはハマらない! |
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↑2 | B/Sについてはこちら。 |



「第二の恵み」は偽りである、と再建主義者(☞http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi)。同意だ。聖霊のバプテスマを受けてるとかいないとか、これも聖霊派のお題目だ。ジーザスと聖霊を分離するから[1] この点、アンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』は聖霊論として秀逸である。。
ニッポンキ業界聖霊派では、ジーザスは天の御父の右にいて、地上は聖霊様(彼らの言い方)がいる。これは聖霊派の聖霊論であり、三神論だ。ベニー・ヒンは2015年あたりに、両者は分離できないと自分の教えを悔い改め、聖霊は”ジーザス・アンリミテド”と言った(至言である)[2] こちらに紹介してある☞最近のベニー・ヒンの聖霊論。が、相も変わらずニッポンキ業界では…
ジーザスを信じた時点ですべては完結している。なぜなら、「聖霊によらないではだれもイエスを主とは呼べない」とあるから(1コリント12:3)。対偶を取れば、イエスを主と呼ぶ者は聖霊を受けているのだ!騙されることなかれ!
- 御霊と人のかかわりについて(@KFCサイト)
tomi 2017/12/25(月) 09:37 第二の恵みを主張する人々の隠れた動機 「信仰しただけではだめだ。○○の体験をしなければならない」 信仰後に第2の恵みを受ける必要があると唱える教えは、ことごとく反キリストである。 われわれにとって、イエス・キリストへの信仰による救いは「完全な恵み」であって、それ以上追加すべきものは何もない。 なぜならば、イエス・キリストは「信仰の完成者」だからである。
イエス・キリストは、信仰を創始され、完成されたのである。つまり、イエス・キリストは信仰に関して「アルファであり、オメガである」。 信仰に関しては、イエス・キリストがすべてであり、彼お一人で完結している。 それ以上何も追加する必要はない。 マリアも不要。教皇も不要。 イエス・キリストを信じて、なおも聖霊を受けていない人などいない。 なぜならば、信仰者には「約束の聖霊の証印」が押されるからである。
「信仰による聖霊の証印だけではだめだ。御名による証印を受ける必要がある」というのも「第2の恵み」の異端である。 私はかねてから「御名による証印」を唱える川口常仁氏に対しては「それは聖書のどこにも記されていないし、イエス・キリスト以外の恵みの必要性の主張であるから異端である」と主張していた。 そして、彼がこの教えを唱える教会から除名されたこともあり、考えを変えたと思っていたが、間違っていた。 先日、ミレニアムの会員の方に対してその教えを再度主張したので、本日電話にて「絶縁」を宣言した。 読者の皆様には、このような「第2の恵み」の教えを唱える人々には、接触しないようにお勧めする。 2. サタンのやり方は巧妙である。 イエス・キリストをそのまま否定すると反発を食らうので、「イエス・キリストへの信仰だけではだめだ」と追加を主張する。 ローマ・カトリックのマリア崇拝も同じようなものである。 「別の仲保者」としてマリアを立てることにより、イエス・キリストの御姿をかすませる目的がある。 「修養」とか「黙想」なども注意しなければならない。 行いの強調は、「イエス・キリストへの信仰のみによる救い」を弱める目的をもつ場合がある。 全部とは言わないが。 3. クリスチャンになってから「聖霊のバプテスマを受けた人」と「受けていない人」で違いがあるなどという教えも間違っている。 たしかに私も聖霊のバプテスマらしきものを受けたことがある。 しかし、それがクリスチャンをさらに高い段階に至らしめる特別な恵みだとは考えない。 イエス・キリストを信じた人は、聖霊のバプテスマというものを受けたにしても、受けなかったにしても、等しく全員が「王なる祭司」であり、この世界と歴史の主人公である。 イエス・キリストの信仰以外のものを追加する心とは「自らへの権威づけ」である。 信仰を自分の利益のために利用する恐ろしい心である。
「敬虔を利得の手段と考え」てはならない。 つまり、宗教で金儲けをしてはならないのである。 教会や個人に権威を与えるために「イエス・キリストの信仰以外の恵み」を作りだし、それによって金儲けを企む人々に欺されないようにしよう。 |
References[+]
↑1 | この点、アンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』は聖霊論として秀逸である。 |
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↑2 | こちらに紹介してある☞最近のベニー・ヒンの聖霊論 |


最近、つくづく感じているのは、なぜニッポンキリスト教が生まれるのか。それは言語の問題であるということ。すでに何度も繰り返しているが、信仰(ピスティス)を「信じて仰ぐ」と理解するならば、それで真理から外れる。これがゆえに、「私は信じます、信じます」と念仏を唱えることを信仰と思い込み、しばしば神に裏切られたとこれまた勝手に落ち込むのだ。信仰は本来「信」でよい。その定義はヘブル書にある。
真(ピスティス)は願われる実体(サブスタンス)であり、見ていないものの現出(立証)である(私訳)-Heb 11:1
このサブスタンスは永遠の霊の領域に存在するが、それはつねに今(NOW)の領域である。神はI AM(ある)だから。永遠の霊の領域とは神の領域と言っても良い。そのサブスタンスにタッチし、それをこの物理的時空間に現出させることが立証である。ウォッチマン・ニーは最初の段階を霊的にゲットする、次の段階を物理的にゲットすると言う。これは信じて仰ぐことなどではない。
今、この文章を読んでいるあなたの目の前のディスプレイが、ある、のと同じように、信(=サブスタンス)も、ある、のだ。それは、今、ここ、におけるリアリティー。ARE YOU WITH ME? 神はいつか私を癒して下さるだろう、は必ず裏切られる。それは信ではないから!あえて言えば、信心かもしれない。こうして先のS氏のように「癒されないのは信仰がないというのか」と抗議するわけ。かくして神を告発する。
また祈りという単語も大いに問題だ。あらゆる宗教で祈りという行為を行う。では、われわれの祈りと彼らの祈りはどう違うの?祈りがしばしば、神の同情を引き、嘆願、つぶやき、言い訳、あるいは逆に私は一人前の信仰者であることの証明のためのデモンストレーションとなっている。
もちろん、神の前に私たちの心を真実に注ぎ出すことは重要。が、祈りのそもそもの意味は何か?ヘブル語では”palal”、原義は”to judge”、つまり「裁定すること」だ。祈りは裁定、つまり、永遠の今の領域のサブスタンスを見極めることなのだ。
私たちのアクティベーションされた霊は永遠の今の霊的領域にポータルとして開かれている。神の国が私たちの内側から外側へと流れ出る、いわばホワイトホールなのだ。その領域は時間と空間を越える。だから二千年前の事実が今の私のリアリティーとなる。十字架の事実は今、ここにおける霊的サブスタンス、それは信の祈りによってリアリティーとされる。
また、たとえば「アーメン」の意味は
‘âman
aw-man’
A primitive root; properly to build up or support; to foster as a parent or nurse; figuratively to render (or be) firm or faithful, to trust or believe, to be permanent or quiet; morally to be true or certain; once (in Isa_30:21; by interchange for H541) to go to the right hand: – hence assurance, believe, bring up, establish, + fail, be faithful (of long continuance, stedfast, sure, surely, trusty, verified), nurse, (-ing father), (put), trust, turn to the right.
つまり、支える・守る・真実・確実さ・親の保護などの意味であり、それは神の名でもある。事実、イエスは「アーメンたる方」と言われている(Rev 3:14)。栄光はカボド、その意味は重さ。臨在はパニームで、顔の意味(神の顔のペニエルと同じ)。日本語訳は真理を記述するためには最も不適切な言語であると常々言っているが、改めてまことにそのとおり。日本語のマインドによる世界観から解かれよ。
あるいは聖化にしてもそれを日本語で考えてはならない。それは髪を七三に分けて、きよく・正しく・美しく、三浦綾子夫妻のように生きること・・・ではないのだ!それは生命現象だから。聖書は倫理や道徳の規範の書物ではない。生命現象を語る書なのだ。要するに生物学の本。聖化を倫理や道徳と絡めるといわゆるクルシチャンが誕生する。すべては新しく与えられる生命現象として味わうのだ。それはいのちにおける調和と健やかさの意味だ。
ちなみにこちらの多分ニューエイジ系の方の文章をご覧下さい。あれ?私の新著とそっくり!Dr.Lukeもついにニューエイジに走ったか・・・との非難もあると思っておるところ。しかるにこの方はこう言っている:「神というエネルギー」と。つまり、人格を有した、まして三つの人格(Persons)を有するひとりの神の第二位(神のサブスタンス)が肉体を取られたなどはとても理解されないところだ。
ニューエイジはキリスト教よりもよほどスピリチュアルな現象あるいは世界を知っている。が、イエスという唯一のポータルを通ってではないのだ。ここにわれわれとの本質的相違があるのだ。神のバイブレーション、波動と共鳴すること。神の霊の場に調和すること。そのためにはマインドがトランスフォームされる必要があること。この方も言っている。
しかし、われわれの場合、これらの霊的経験はすべてイエスなるゲートあるいはポータルを通してである。これがクリスチャン経験。すべてはキリストのうちなる現象であり、経験である。ところが残念ながら、霊的領域にタッチすることにおいてはニューエイジャーの方が慣れている。ニッポンキリスト教神学のガリガリオツムには私の新著の内容はトンデモ系であろう[1] 日基のあるうつ病牧師が、こんな神学はベンキョウしたことがないと言ったとか。本書を見てもらえばわかるが、ほとんどが御言葉なのだが。
だが、ここの読者諸氏はすでに理解されていると思う。ジューシーな肉汁の抜けたスジ張ったステーキはいい加減飽き飽きだと。私は正直言うと、「信仰」とか「祈り」とか「聖化」とかいう用語を使いたくない。そのような日本語の単語を超えたサブスタンスに直接タッチし、それを今、ここに現出させるだけ。
『スターウォーズ』や『ルーシー』に対抗するわけではないが、繰り返すが、、「フェイス・アウェイクン」だ。クリスチャンよ、自分が何者であり、どこにおる者か、そして何をなし得るか、今、ここで覚醒せよ!

TODAY’S CELEBRATION DEC.24, 2017-マトリックスをチェンジし一歩を踏み出せ
●MSGタイトル:マトリックスを変え一歩を踏み出せ ●聖書個所 …
●MSGタイトル:マトリックスを変え一歩を踏み出せ
●聖書個所:Josh 3:13-17;Gal 3:10-13;Rom 5:2;2Tim 1:7;Ps 103:5;Isa 40:31など
●2018年1月7日(日)のセレブ:(12月31日はありません)
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship ®
●YouTube:Dr.Luke’s Kingdom Fellowship Channel
●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
全国有名書店で発売中
再販されました。Amazonなどに出るまで少々お待ちください。
なお、オンラインショップから注文できます。
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
●楽天にて:最初はとっつきにくかったです。というのは、カタカナ日本語多すぎます!でも、彼のyoutube聞き始めて、とってもおもしろくなってきたので、とうとう読み始めました☆内容は本当にアーメン!(まことにその通り)です☆すばらしいね☆Youtubeと一緒にみるのがおすすめです。

クリスマスはしょせん世のもの。街はキラキラ✨、ラブホが満室になり、商売かき入れ時、各種イベントで盛り上がります。ボクシたちも色物呼んで、ここぞとばかりにイベント組んで集客を計ります。信徒の皆様はけっこう酷使される時期。いろいろと盛り上がります(苦笑)。
元よりジーザスとは何も関係がない[1] まあ、あえて彼の誕生日を特定するつもりもないのですが。関心ある方はこちらをどうぞ。。だからね、われわれがリキ入れるところではないのです。世のイベントとして楽しめばよろしい・・・。
というわけで、昨晩は六本木でスタイリスティクスのLIVEを楽しんでまいりました。結成49年だそうです。けっこうな老婦人が踊っておりましたが、考えてみれば今70としても当時は20前後。青春の一コマに戻っていたのでしょうね。
人生と歌、なかなかいい味わいがあるものです・・・。

フェイスは霊のサブスタンスを変化・生成する―Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
いま、フェイスとは願うサブスタンス、まだ観測されていない事の現出である。-Heb 11:1(私訳)


うん?この見解は要注目だ。ゼカリヤ書ではエルサレムは二分されると予言されているわけ。
14:1 見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものが/あなたの中で分けられる日が。
14:2 わたしは諸国の民をことごとく集め/エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され/女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が/都から全く断たれることはない。
まことにゼカリヤ書12章のとおりになりつつあるわけ。
12:2見よ、わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる。
12:3 その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。地のあらゆる国々が集まり、エルサレムに立ち向かう。
フツーのニッポン人は、なんでエルサレムなんだ。あいつらが諸悪の根源、俺たちには関係ないがぁ、巻き込むなぁ!と言いたいでしょう。が、重力の法則はどこにでもあるとおり(物理的マトリックス)、地政学も神のマトリックスなのです。
NHKも無知丸出し。米福音派がトランプを先導してエルサレムを首都宣言。彼らはイスラム過激派と同様に強固な過激思想の持ち主だと。池上も困ったものだが。
アインシュタインも、なんで重力なんてあるんだぁ!と訴えることはできないように、創造主のマトリックスには自然と従うだけ。そもそも俺のまたあなたの顔はなんでそういう顔なの?って誰も答えることができない。良かれ悪しかれ、付き合うしかないわけ(笑)
そもそもね、中東なんかとカンケイないって言ってるニッポン人、みんなクリスマス~ってやってるじゃん!(笑) ラブホが満室、商売かき入れ時、ボクシもね。結婚式は白いチャペルで牧師の前でするでしょ!慈しみ深き~ってね。これがニッポン。よほど変な国だと思いませんか?
ちなみにこの記事。田中みな実氏が働いてカネを稼いで、ブランド物買って、なんだか虚しいと。これを病んでいると。あの映画をきわめたソロモンも「空の空、すべては空」と言っている(Eccl 1:1-5)。
こういった本質的な部分に触れることがタブー視されるのがニッポン。表層でオモシロオカシク流すのがスマートだとね。本当はみんな心の底にあるんだけど、表立っては言えない。言うとビョウキにされるからね。本当はカプセル空間ニッポン自体が病んでいるわけ。

数学では公理と言われる前提から論理に従って定理が生み出される。この公理は自由に取ることができる。例えば、ユークリッド幾何学においては、「二本の平行な直線は決して交わることがない」とする。まあ、われわれの常識においてはOKだ。が、「交わる」としても矛盾なく幾何学(非ユークリッド幾何学)を構築できるのだ[1] … Continue reading。
さて、そこでわれわれは「フェイスの公理:聖書は(その原典において)誤りのない神(=宇宙の創造者)の言葉である」ことを公理として受け入れよう。これはもちろん拒絶することもできる。これを受け入れることはシックスセンス(五感を超えた超感覚)であるフェイスによるのだ。
というわけで、これからの論証は、聖書は真実を記録しており、イエスは復活したことを信じている人に対するものである。そもそも聖書の真実性やキリストの復活を認めない人には無意味なものであると言っておく。そのような人々(つまり「フェイスの公理」を拒絶する者たち)を折伏するつもりはもとよりないので、あらかじめ・・・。
さて、聖書にはこうある:
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。-1Cor 15:13
よく読んで欲しいが、ここで大切なのは、このパウロの命題の対偶を取ると[2] 命題「p⇒q」(「pならばq」と読む、英語では”p implies … Continue reading、「キリストが復活したのであるから、死者の復活もある」となる。ARE YOU WITH ME?
かくして、聖書を神の言葉と信じると宣言する以上は、死者の復活があることを認めざるを得ないのだ。仮にあなたの経験の範囲においてはそのような現象がなかったとしても、だ[3] … Continue reading。ここでわれわれは真の遜りを求められる。私が信じるのは、自分の経験(常識)か、神の言葉か・・・。主は言われた:
だれでもわたしに従う者は、自分を否み、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。-Luke 9:22-23
ここにわれわれのマインドのトランスフォーメーションが必要となるのだ(Rom 12:1-2)。そもそも、私たちのうちにある世界モデルは一種の幻想、あるいはマトリックスであると知り得た者は幸いである。神のマトリックスに転帰すること―これがフェイスによる霊的跳躍(スピリチュアル・リープ)である。そのとき、神のマトリックスの広い世界に入り込み、その豊かさを享受できるのだ!
かくして幼稚かつ曲がりくねったキリスト教神学などでマインドをかき回されないこと。ソロモンも言っている:
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。-Eccl 7:29
対してジーザスは言われた:
信じる者にはすべてが可能である。-Mark 9:23
この「すべて」は文字通り「すべて」である[4] これを全称命題という。。あなたのオツムで「すべて」の領域を勝手に設定しないように。ジーザスのマインドにおける「すべて」である。もしあなたが例外があるとすれば、ジーザスを嘘つきとすることになる。あなたにはその勇気があるだろうか?
ここでわれわれはすでに得ているキリストのマインドをアクティベーションする必要があるのだ(1Cor 2:16)。ジーザスの考えたように考えること。一度われわれの常識や先入観を崩していただく必要があるのだ。破壊と創造だ。これを死と復活の原則と呼ぶ。まさに神はこの原則に基づいて永遠のみわざを達成されたのだ。
わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。・・・ わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。-Rom 6:4-8
この新しいいのちの領域はフェイスによって生きる領域。そこには時空間や五感の制限はない。フェイスする者にはすべてが可能なのだ!
References[+]
↑1 | この”無矛盾“なる体系を構築するのが数学なのだが、ゲーデルによると無矛盾な公理体系の中で肯定も否定もできない命題があることが示された。これを「ゲーデルの不完全性定理」という。 |
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↑2 | 命題「p⇒q」(「pならばq」と読む、英語では”p implies q”:pはqを意味する)は、言い換えると、「『pであってqでない』ことはない」(たとえば、「雨が降るならば傘をさす」とは、「『雨が降っているのに傘をささない』ことはない」という意味)だ。記号では「¬(p∧¬q)」。一方対偶は「¬q⇒¬p」(qでないならばpではない)。言い換えると「¬(¬q∧¬(¬p))」すなわち、「¬(¬q∧p))」となり、元命題と同値。対偶は元命題の言い換えなのだ。 |
↑3 | 自然科学は「これまで見てきたカラスは黒いので、すべてのカラスは黒い」と結論する。具体例から一般則を導く手法を帰納法と言う。が、元より全カラスを調べたわけではないから、これはあくまでも不完全。対して、数学においては完全帰納法を用いる。同様に、あなたがこれまでの経験で死者の復活を見たことがないとしても、それが「全くない」とは結論できないわけ。 |
↑4 | これを全称命題という。 |