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個人預言に関して

ふーむ、中川氏的には聖書が完成している現在、預言は【ない】とまで断言してしまうわけだ・・・。極私的には今も預言は語られて【いる】という立場であるが(カリスマタは今もある)、しかし、このテーマについては警鐘的な意味で同意できるところだ(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Keywords/prophesy.html)。

新約では聖霊はキリストの御霊として各人のうちにキリストを生かすのだ。旧約とは経綸が異なるフェーズに入っている。ゆえに本質的に内なる油に聞くこと。この内なる油は【すべてのこと】について教えるとある(1John 2:20)。外には御言葉があり、必ず内側の言葉と外なる言葉は共鳴するのだ。新約ではこうやって導きを受ける。

「聖霊様~」ってやっている人たちはどうも旧約の神の霊との関わりのレベルに留まっている感じがある。この辺はアンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』やウォッチマン・ニーの"The Communion of the Holy Spirit", (Christian Fellowship Publisher)をお薦めする。正直、「聖霊様~」って、極私的にはついて行けないところだ。私たちは復活したジーザスにフォーカスする。ベニー・ヒンもここに気がついたのだ。聖霊を単独に求めるのは誤りだと。

カギはヨハネ7:39(John 7:39)、通常ここを「御霊はまだ注がれていなかった」と訳すのだが、原文では「御霊はまだ【なかった】」だ。はあ、神の三位一体は永遠でしょう?・・・そう、ここにマーレーが指摘する奥義がある。聖霊は今やキリストの御霊であり、ジーザスのメモリと言葉、そして人格を証する霊。旧約の神の霊とは経綸的に異なっているのだ(詳細は⇒http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html)。

一般に聖書の矛盾がある部分には、実はかえって深い霊的意味があるのだ。たとえば、香壇の位置。出エジプト30章(Exo 30:6)では聖所にあるが、ヘブル9章では至聖所だ(Heb 9:4)。なぜ?ここにも旧約と新約の経綸の決定的違いがある(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Topics/mostholy.html)。

香とは私たちの祈り。旧約では聖所で焚かれていたが、新約では至聖所で焚かれるのだ。幕屋にしろ、神殿にしろ、外庭=体、聖所=魂、至聖所=霊の対応があることは今や言うまでもないと思うが、要するに魂の祈りと霊の祈りの違い。新約ではすでに幕は裂かれており、大胆に至聖所に誰もが入れるのだ。

ゆえに霊、すなわち至聖所においては主と直接まみえて、直接聞くのであり、他人から預言をいただくために聖所や外庭に戻る必要などはないのだ!あなたが自身が預言者でしょうに。これが新約のあり方。外庭や聖所、つまり身体的儀式や魂の活動は旧約の世界なのだ。この辺はアンドリュー・マーレーの『至聖所』(パックストン記念霊交会)がエクセレント(今や入手はほぼ無理かもだが・・・)。

結局、ここでも聖霊論の致命的な理解の欠陥、すなわち旧約と新約のフェーズの切り分けができていない点が、この問題の根底にあることが分かる。

参考:預言の霊的機序(http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/prophecy.html

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