マインドの捕囚からの解放-絶えざる切断-

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。-ヘブル3:15(その他Heb 3:13;4:7なども)

ここの「今日」とある単語は、「今」とも訳される。NOWだ。YHWHとは"I AM"。「ある(Being)」だ。この方の御声を、今・ここで、聞くこと。これがフェイスだ。フェイスは聞くことから生まれる(Rom 10:17)。

数日前にノドの痛みを覚え、声が出なくなり、咳がでるようになった。その前日にちょっと体を冷やしたことが原因とわかった。すると、これは3,4日は痛みが続いて、まあ、抗炎症剤を飲んでいれば一週間程度で治るだろう・・・と無意識に症状を受け入れて、これまでの経験的知識によって思考している自分に気がついた。

自分のマインドが自然とそちらの思考パターンにはまり、この五感の世界に捕られていることに、ハッと気がつき、ただちに主の血を宣言して悔い改め、その思いを拒絶した。加えて、真理を宣言した、私はすでにイエスの打たれた傷により癒された、と。

これはシックスセンスの世界だ。その世界のサブスタンスをフェイスにより五感の世界に現出させること。・・・で、現在はどうか。症状は消えている。これまでの経過予測を外れているのだ。ハレルヤ!

マインドをこの五感の世界に捕囚されている人はそのことに気がついていない。気がついていないので悔い改めができない。ゆえに主の血の効力を受け損ない、五感においても癒されることがない。気が付いていないことが致命傷なのだ。

しばしば、十字架で古い私は死んだ、私はイエスの傷により癒された、とメッセージで語ると、自我を十字架につけてぇ~的な罠にハマっている人は、自分で死のうとする。あるいは癒されようとする。そして質問するのだ、死のうとすればするほど自分が生きていることを意識してしまうのです~。とか、癒された実感を感じようとしてもどうしても感じられないのです~。どうしたらよいのでしょうか・・・・。

嗚呼、・・・・(あえて言わない)。方法ではない、感覚ではない、現象ではない、五感の世界ではない、と何度言えば悟るのか。

この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。-Isa 6:10

この「肥え鈍らせ」はワックスするという意味。心にワックスがこってり塗られて、栄養分が染み込まないのだ。さらに大切なのは、自分の目、自分の耳、自分の心で悟ること。人のメッセージで分かったつもりなってもそれは何らの効力もない。神の語り出された言葉(レーま)を自分で受信すること。

遠藤周作の罠に落ちてはならない。神は語る神である。沈黙の神ではない!神はフッと語る。こちらの霊がチューニングされているならば、神のレーマを受信できる。ところがここで聞こうとする。語る時は主の主権で決まることを忘れて(注)、主に語らせようとする。嗚呼。これも五感の罠。

神の語られたレーマには不可能なことはない(原語)。-Luke 1:37

結局、あれこれの問題や葛藤を抱え続ける人は、聞いていない、のだ。これは彼らを憤慨させるかもしれないが、はっきりという必要がある。レーマを聞いていない。癒されたないのは信仰がないというのかぁ!と憤る人も同じ。

自分のマインドの中に自分を幽閉しているゆえに、シックスセンスであるフェイスが働かない。フェイスを使え!というと、また、どうやって?と質問が来る。マインドが捕囚されている人は延々とこのような押し問答を繰り返す。そして決して納得して、満足することがない。

心のワックスをぬぐい去っていただくこと。すると聖霊がワックスされる。車のワックスも同じ。古いワックスを取り去り、新しいワックスを塗る。塗装もそうだ。古い塗装の上に新しい塗装はできない。してもすぐさま剥がれ落ちる。

古い革袋に新しいワインは入れられないのだ。旧と新のパッチワークは不可能。が、キリスト教はこれをしている。自分の聖書解釈や霊的経験を一旦捨てよ。どんなに深い解釈や経験であっても、だ。つねに捨て続ける必要があるのだ。それは絶えず流れる新しい経験に入るために。新しい経験は古い経験の延長線上には決していない。それは絶えず切れている必要がある。

ちなみにすでに紹介した道元も、<ただ今だけ>の世界をこう言う:

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。(『正法眼蔵・現状公案』)

まさに絶えざる意識の流れは切れることがない。が、それは瞬間瞬間切れている(⇒詳細は「意識の扱い方」)。私たちは過去に生きると後悔と自責、未来に生きると不安と思い煩いに苛まれる。私たちが生きることができるのは、<今・ここ>だけ。この永遠のNOWにおいて、禅者と違い[1]意識の扱い方」において禅者とキリスト者の類似性と相違を論じている。私たちは御霊の声を聞くのだ。

一度聞けば、たとい症状があろうか、不足があろうが、トラブルがあろうが、「すでに得た」と分かるのだ。これがフェイスの瞬間。私たちのフェイスは時空感を超えて[2] … Continue reading、永遠の神のわざを、<今・ここに>実体化するのだ。

(初出:2015年11月14日

 

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References

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1 意識の扱い方」において禅者とキリスト者の類似性と相違を論じている。
2 「時」には二つの単語がある。ひとつは"chronos"。これは物理的な時間、五感の世界。もうひとつは"kairos"。これは神の定めた時、英語では"occasion,season,proper time"。いつもながら邦語ではこのふたつを混同する。だからkairosにいないのに、しばしば焦る。祈っても叶えられないと神に憤る。ソロモンがいう、天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある、の「季節」はギリシャ語のkairosに相当する。後者の「時」はそのタイミング。面白いのはその意味は"NOW"だ。つまり信仰はkairosにおけるNOWの世界。クロノスに支配されてはならない。われわれはカイロスにあって、クロノスを支配するのだ。

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