フェイス

サブスタンスをつかむ

プロテスタントの「律法行うことによらず、ジーザス信じることによって救われる」なる信条は偽りであるとすでに指摘している1)この視点から、ルターはヤコブ書を「藁の書」と評した。が、ルター自身が聖書真理から逸脱しているのである。佐藤優氏によるとルター神学はヒトラーの思想の土台となったとのこと。ルターのユダヤ人排斥というか憎悪は異常だからね。ちなみにカルバンはサディスト。フォイエルバッハが言う通り、神学はその人間の病理を現わしているわけ。。このセルフ中心のプロテスタント信者は、よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。メッセも語ったがみな自意識過剰だ。

実はフェイス(信)はそのようなこととは一切関係がない2)よく自分の”信仰”に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の”信仰”を見ていると罠に落ちるのだ。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5。信仰、もっと正確には信(pistis)とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信なのだ(Heb 11:1)。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観察されていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)

世界はそのサブスタンスがframe化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の五感の事実が霊的サブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと感じている。しかしジーザスの目にはサブスタンスの方が現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。

私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ!

サブスタンスに触れたとき、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前にはまだ存在していなくても。くどくど長たらしく祈る必要もない。ふっと霊を開けば良いのだ。神の国は<今・ここ>にあるのだから。キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。

私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる。パウロは明確に宣言している:

パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。-1Cor 3:22

御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された(John 14:12)。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。

まことに私たちは神の国のパワーポイントあるいはパワースポットなのだ!

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1. この視点から、ルターはヤコブ書を「藁の書」と評した。が、ルター自身が聖書真理から逸脱しているのである。佐藤優氏によるとルター神学はヒトラーの思想の土台となったとのこと。ルターのユダヤ人排斥というか憎悪は異常だからね。ちなみにカルバンはサディスト。フォイエルバッハが言う通り、神学はその人間の病理を現わしているわけ。
2. よく自分の”信仰”に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の”信仰”を見ていると罠に落ちるのだ。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5
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