iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

あの聖書に対しては誰にも引けを取らない再建主義の旗手富井氏がこう書いておられる。
tomi 2018/02/27(火) 21:35
自信を粉砕されるような体験は神の恵みである
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・3)
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9-14)
1.
「心の貧しい者」の「貧しい」に当たる原語ptochosの語源は「縮こまる」という意味で、ここから「乞食」「極貧」を意味するようになった。
「心の貧しい者」(ptwcoi tw pneumati)は直訳すると「心において極貧である人」「心の乞食」である。
神の御前に「自分には誇れるところが何もない」と自覚し、縮こまって物乞いをするほど落ちぶれている状態を表現している。
ルカ18・9-14の取税人がこの例である。
彼は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」
「目を天に向けようともせず」は、神に対して自分はただ憐れみを乞うしかない破産者であると自覚していることを示している。
それに対してパリサイ人は「立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」
「ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく」「ことにこの取税人のようではない」
パリサイ人は、人と比べて満足し、戒律を外面的に守っていた。
しかし、イエスは、罪とは第一義的に神に対するものであり、心が汚れるならば罪人であると言われた。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。・・・
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5・20、28)
「心の中で姦淫を犯した」人は誰でも罪人である。
だから、神の御前に義人は一人もいない。
自分を誇れる人は誰もいない。
自分の義によって御国に入ることができる人は誰もいない。
だから「自分を義人だと自任し、他の人々を見下しているパリサイ人の義」では御国に入れない。
御国に入れるのは「パリサイ人の義にまさるもの」だけである。
それは「心の貧しい者」である。
「天の御国はその人たちのもの」である。
つまり「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」という者だけが「義と認められ」る。
大筋、同意する。これはヤコブがヤボクの渡しで神とレスリングをし、その最も強い部分である腿のつがいを外される経験である。彼はそこで神の顔を見たとして、これを「ペヌエルの経験」という。霊が死んでいる人は体と魂で生きる肉となったが、その過程でプライドや価値観などをため込む。これらは一度粉砕される必要があるのだ。
が、英語やロシア語をはじめギリシャ語もできるはずの富井氏までもが”ptwcoi tw pneumati”を「心の貧しい」者と訳しておられる?! これほどに日本語のマトリックスの影響は深いのだ。これは「霊の貧しい(乞食)」者である。これについてはすでに指摘しているので、こちらを参照されたい(☞聖書解読と暗号解読の共通性-そのキーは何か-)。ポイントは一度刷り込みが起きると、それは無意識レベルでの思考回路を形成し、そこからいかに抜け出すことが困難になるかということ。ゆえに-
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき理性的礼拝です。あなたがたはこの世の形に構成されてはなりません。むしろ、思いを新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。-Rom 12:1-2
邦訳では「心を新たにし」と、またも誤訳であるが、「思い(nous)を新たにする」だ。かくして霊と魂の混同をはじめ、邦訳聖書のテキトーな訳により多くの人々がニッポンキリスト教のマトリックスにはめ込まれ、クルシチャンと化している。ヘブル書にあるとおり、霊と魂の切り分けが求められるのだ。
霊とか魂とか心とかの違いはどこにあるの?と思われる方は幸いである[1] … Continue reading。その疑問から真理が解かれる糸口を得ることができるのだから。
日本語だけの世界に住む人は大いなる損失を被っていることに気がつく必要がある。言語マトリックスから解かれること-これは霊的な領域にタッチし、その豊かさを成就するためのマストである。

はじめに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。-John 1:1-2
この言はロゴス。神を表現する存在、もちろん御子である。ヘブル書では神のサブスタンスの現出と言われる(Heb 1:3)。見えない霊なる神たる存在をこの物理的時空間において肉体をとおして表現された。肉体は完全なる人。しかしそのサブスタンスは神。が、このお方はあくまでも人として生きられた。人であるから聖霊を注がれ、神が共におられたので、あれだけのわざを成し得た(Acts 10:38)。
神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。-Acts 2:22
イエスとは御子が地上に人としているときの名前である。神は人を通してご自身を証される。
神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。この敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ、”霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16
ここはよく、「キリストは肉において現れ」とあるがTRでは「神は」である。「敬虔の秘められた真理」とは奥義であり。Vincentはこう指摘する:
The mystery of godliness is the substance of piety = mystery of the faith (1Ti 3:9).
すなわち、神のサブスタンスがフェイスの法則によって肉において現出することである。これはキリストが初穂として模範を示された。エクレシアの原則もまったく同じ。われわれの肉を通して神は現れる(☞神をエミュレートする)。フェイスはいわゆる日本語で言うところの信心とか信仰とは違う。それは神が創造のわざをなさるときに用いられたパワー、そのフェイスを語り出すことによって万物が存在するに至った。マルコ11章22節を「神に対する信仰を持て」と訳する傾向があるが、これは神のフェイス。ガラテヤ2章20節も「御子を信じる信仰」とされているが、御子のフェイス。つまりそれぞれ
神のフェイスを持て。-Mark 11:22
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20
ゆえに
義人はフェイスによって生きる。-Rom 1:17
普通、人は目によって生きている。視覚から得られる情報に基づいて物事を判断し、意思決定し、行動を起こす。教習所で言われる、認知→判断→行動というパタンだ。つまり視覚はひとつのパワーであり、大脳は自動的に世界の映像を構成する。いつも言うが、色はもともと存在しない。存在するのは電磁波なる物理的サブスタンス。そのある波長の領域のみを目が知覚し、視覚野に色が生まれる。これをクオリアと言うわけだ。われわれが内的に構成している世界の像はほんのわずかな物理的サブスタンスを用いているに過ぎない。
霊から生まれた私たちはこのような肉体に備わる五感の他に、霊によるフェイスを第六感として獲得した。このフェイスは物理的時空間を超えて機能する。だから二千前のイエスの死と復活にわれわれも与れるのだ。これ自体がスーパーナチュラルであろう。はっきり言うが、スーパーナチュラルを認めない者はフェイスを知らないことを自ら証明しているのだ。聖書を五感で読んで、ある者は文学的に、ある者は道徳的に、ある者は人生論的に、ある者は歴史書的に、オツムによって理解しているに過ぎない。それはフェイスではない!
イエスは神の国を地上にもたらした。神の国を現すためには何が必要であるか?語ること!
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:18
語ることは神の言を解放すること。もちろん自分の主義思想などではない。神の言だ。イエスはうちなる父の言を語り出した。すると死者が生き返り、らい病が癒され、聾唖が語り出し、足萎えが歩いた。神の言を語り出すとき、その人の周りにはオーラが生まれる。それは霊のバイブレーションであり、そのオーラに包まれているならば、つねに神の国を運ぶことになる。
人はそれぞれオーラを醸している。自分の問題や体調に拘束されている人は固く、冷たい雰囲気を醸す。暗い考えや希望のない思いに囚われた人はどんよりとぼんやりして、暗い雰囲気に包まれている。オツムで何でも処理しようとする人は神の国に参加するのではなく、傍観者的に見ているだけだ。自分が当事者であることを知らない。
セレブレーションでも真に霊が温められて、霊を解放している人は温かく、満ち足りたオーラを醸し出す。自分だけが恵まれたいと切望する人はかえって満たされない。なぜ? 自分を捨てないからだ(Luke 9:22-23)。あくまでもすべての基準は自分の考えであったり、感情であったり、体の状態であったり、つねに自分が物差しとなっている。そのようなセルフのカプセルに閉じこもる人は神の霊をも排除してしまっている。だから神のわざを受けられないし、したがって変化しない。
声を上げることを私は強調しているが、声と霊は密接に関係している。たとえばあなたが旦那や子供をしかりつける時を考えてみてほしい。「あんたぁ!なにしてんのよぉ!!!」と心の底から怒りをぶつけるとき、あなたは怒りの霊を解き放っている。セレブではおとなしく、とても恥ずかしくて声を出せませんとか言いつつ、借りてきた猫のような状態であっても、家族に対しては自由に霊をぶつけているのだ! わかります、要点が? 人は心にあることを口が語る。家族の中では無防備に何気におれるゆえに霊を自由に発散しているのだ。しばしばそれは神の霊ではないのであるが・・・。
だから、逆を考えてみればよい。私たちはキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。そのマインドを発散するのだ。それが神の霊を解き放つこと。それは父なる神の言であるから、イエスがなされたと同じわざを成す。私たちが何かをするのではない。私たちの口を通して解き放されたれた父の言がわざをなすのだ。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。-Isa 55:11
私たちが神のロゴスを語り出すならば、それは神を語り出すことだ。なぜ?ロゴスは神だから!イエスがなされたことと同じ原則、メカニズムが働くのだ。ゆえにイエスは言われた
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12
神を語り出すこと。これが「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実際である。神はあなたの口を支配したいのだ。そのためにあなたが自分のメンツや恥ずかしさやためらいなどを破り捨て、声を上げる瞬間を待ち望まれている。あなたが神のわざを得られないのは、はっきりという、自分を裂いていないないからだ。
自分を安全な場所に置いたまま、「イエス様、憐れんでください、癒してください」といったところでそれは働かない。イエスは盲人に歩いてシロアムの池に行けと言われたのだ。ペテロも小舟から一歩を踏み出した。コンフォートゾーンを抜けよ。あなたはそのリスクを負うか?と主は問うておられる。すべてはあなたの応答次第なのだ!

●MSGタイトル:魂をリファインされる
●聖書個所:Gen 5:22;2Cor 3:17-18;Eph 1:18;Ps 87:7;Job 32:8;John 16:13-15など
●2018年3月4日(日)のセレブ:
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship reg;」
●YouTube:Dr.Luke’s Kingdom Fellowship Celebration
●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
全国有名書店で発売中
電子書籍化決定
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
●楽天にて:最初はとっつきにくかったです。というのは、カタカナ日本語多すぎます!でも、彼のyoutube聞き始めて、とってもおもしろくなってきたので、とうとう読み始めました☆内容は本当にアーメン!(まことにその通り)です☆すばらしいね☆Youtubeと一緒にみるのがおすすめです。

再建主義の富井氏の紹介する情報はけっこう興味深いものが多い。メーソンの本質については単なる社交サロンとか慈善団体と言われているが、そこに向こうの霊が働いていることは否定できない。表向きの信条や主張とは別のところに真実はあるのだ。これは今回蒸し返されているクリスチャン・トゥデイの疑惑についても同様である[1]本件については、今回は私は関わるつもりはなく、ここでは扱わない。情報はTwitterやFBを参照されたい。
フリーメイソンに関する古典的な解説書の書評
フリーメイソンに関する古典的な解説書Freemasonry: An Interpretation by Martin L. Wagnerについて、www.fpparchive.orgが書評を記しているので紹介する。
フリーメイソン:Martin L. Wagnerによる解釈
これはフリーメーソンの分析である。フリーメーソンを理解することなく、誰も米国の政治システムと世界システムを理解することはできない。組織と宗教としてのフリーメーソンは、直接的に、自分の名前で行動ことはないが、その影響はあらゆる宗教と政治に及んでいる。それは、あらゆるものを結合して、単一の世界政府を作ろうとしている。
このテーマに触れるものは誰もいない。政界を支配する霊的な力であるにもかかわらず、フリーメーソンの正体を知っている者はほとんどいない。フリーメイソンからの祝福がない限り、政治的に成功することはない。宗教組織はその前にひれ伏す。戦争と平和は、フリーメーソンの国際的な目標に合わせて調整される。 フリーメーソンの影響を疑う者は、1000万人に一人もいない。
フリーメーソンは、世界人(universal man)を創造する。キリスト教からモハメド教まで、すべての宗教を統一する。民主主義から国家社会主義まですべての国民戦線を単一の世界秩序に結びつける。民主党であれ共和党であれあらゆる政党を、中央権力に献身する一つの政党にまとめあげる。フリーメーソンは、人類の心を集団主義の全体精神に結びつける。歴史は記録されず、ただ計画のみがある。
様々な戦争、平和、政治があれど、名前は一つしかない。それは、フリーメーソン。その目標は、1つの世界、1つの宗教、1つの人種である。
いわゆる政治の過程は、大衆を楽しませるためにある。国家という船の航路は、あらかじめ定められている。すべての議論は、大衆の心を占領するための軽薄なナンセンスである。選挙は、政治的選択のためのジェスチャーゲームである。
フリーメイソンのシンボルマークを身につけ、典礼書を暗記し、祭壇の前にひざまずく何百万もの人々についてはどうだろうか。全フリーメーソンの教皇アルベルト・パイクが著書『道徳と教義』の中で述べたように、 “一般のロッジ(blue lodge)は、寺院の表玄関でしかない。入会者は、意図的にミスリードされ、欺かれるが、彼らはそのように扱われるべきなのである。フリーメーソンの真の精神を理解するのは、熟達者に限られる。」
フリーメーソンの目標は、現在の実現である。人類は、宗教と政治の多様性を夢想するが、フリーメイソンは人間の精神の統一を最終的に達成しようとする。
ワグナー氏は、この組織の性質を明らかにしている。それは、オープンであると同時に秘密主義的である。儀式とシンボルが持つ隠された意味を解き明かされるのは、熟達者に限られている。ワグナー氏はすべてを語る。氏は「フリーメーソンは宗教である」と結論した。この1冊の本は、その価格の10倍の価値がある。1912年に私費出版された(563ページ)。
https://www.fpparchive.org/media/documents/public_policy/A%20Letter%20From%20Ephesus_Larry%20Kunk_June%202000_Ephesians%205;11,%20Inc..pdf

傾国の美女と言われる楊貴妃(楊玉環)の死の秘密を、後の遣唐使空海と白楽天(白居易)が探る幻想物語。史実に基づきつつ、中国の伝奇物語風にアレンジし、安禄山の安史の乱により追われた玄宗皇帝によって自死を求められて逝く悲話をファンタジックに脚色。高力士に靴を脱がさせて讒言され、宮廷を追放された李白譚も絡めて、CGを用いてカラフルに、しかしその悲劇性を描いている。
途中黄鶴楼の詩などの逸話も思い起させる部分もあり、当時の唐詩を知らないと味わいが損なわれるかも知れない。さらに阿倍仲麻呂が貴妃を慕って、日本に連れて帰るという逸話も交えて悲恋の物語ともなっている。
貴妃は豊満なボディに恵まれ、当初玄宗の息子の妻だったが、玄宗の寵愛を買って后となるわけで、いやはやこの辺りからその末路は運命づけられていたとも言える。まことに極めがたきは男女の仲とソロモンも言っているわけで・・・。
白居易の長恨歌の「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」などは実に艶めかしい描写。が、李白は彼女を趙飛燕になぞらえてしまい、玄宗の不興を買う。まことに女性に対する誉め言葉も選ばないとエライことになるわけでして・・・。この辺りはずっと前にマイ・ブログに書いておりますので興味のあるむきはどうぞ(☞「趙飛燕譚」)。
権力者と女たち、これはなかなか深いものがありまして、あの劉邦もかなりの女たらしで、後の皇后呂雉も初めは清楚な賢い妻だったのが、権力を得ると劉邦の妾曹氏にあのような凄惨な事をしてしまうわけで・・・。聖書の賢人ソロモンも千人の妻と後宮を持っていたし、権力を得ると色気が疼くのは洋の東西を問わずに人の性なのでありましょう
(陰の声:空海役の俳優、マイ・グランドサンに似ているぞ!)

イエスは言われた、羊は門であるわたしを通して出入りする、と(John 10:7-9)。どこと、どこを? 前にも指摘したが、私たちはこの世の者ではない(John 17:14)。物理的時空間において、自然法則により支配されている存在ではない! 確かに私たちの血肉はその法則に縛られている。が、私たちの本質は肉体すなわち物質ではない。霊である。神から生まれるものは霊である(John 3:6)。
私たちは神のDNA(種)をインヒュージョンされ、新しく生まれた生命体(1John 3:9;James 1:18)。つまりニュー・クリーチャー(2Cor 5:17;Gal 6:15)。新生命体。その生息場所は霊的領域である。私たちはキリストともに天に座している(Eph 2:6)。血肉は天に入ることはできない(1Cor 15:50)。Are you with me? 私たちがこの物理的肉体の五感によって感知できる領域にのみとどまるのであれば、それは天の領域に生きることではない。それは肉にすぎない。
私たちはアダムにある時代の経験によって物理的時空間の法則を、たとえ物理法則の難解な数式を知らずとも、感覚的に知っている。私たちが二足歩行をするための微分方程式はどれほどに複雑なものとなるであろうか。しかしだれもが何気に歩く。これが肉体のいのちの能力である。
同じように、霊的領域において複雑な真理は知らずとも、霊が経験的にその領域の法則を理解する。それはフェイスの法則(Rom 3:27)。いのちの御霊の法則である(Rom 8:1-3)。その領域のリアリティー、サブスタンスをこの五感の領域に現出させること、これがフェイス(Heb 11:1-3)。
そのためには語ること。預言の霊は預言者に服する(1Cor 14:32)。それはイエスの証(Rev 19:10)。預言とは神のことばを預かって語り出すこと(☞預言とは;預言の霊的機序)。イエスも自分が語る言葉は御父のことばであると言われた(John 14:24)。彼は預言したのだ。
今、私たちのうちに住まわれる御霊はイエスのことばを受けて、私たちに伝達する(John 16:13-14)。それは霊的バイブレーションとして私たちの霊に共鳴する。フェイスは霊である。そのバイブレーションを語り出すのだ。自分のオツムの何かを語っても何も起きない。いわゆる聖書をアナウンサーが朗読しても何もわざを証しない。今、ここで、神の霊的波動を受けること。そして語り出すこと。これがまことの預言。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13
この時、次の言葉が成就する。
このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11
この「言葉」はdabar。メッセでも語ったが、へブル語のdabarはmatter、実質、実体という意味だ。箴言に
事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2
とある「事」もdabar、すなわち言葉だ。神の言葉は隠されている。神の国はだれかれに明らかにされることはない。探した者、そして見出した者がその実質、サブスタンスに与ることできる。神の国はミステリー、奥義なのだ(Matt 13:11)。
物理的領域と霊的領域の狭間に生きる私たちは、ジーザスというポータルを通して両者を往来し、私たちのうちにすでに到来している神の国の実質、dabarを探り、それを見出すこと。これがサブスタンスを掴むこと。信じることとはまさにサブスタンスをゲットすることだ。そして信じたら物理的領域へと語り出す(2Cor 4:13)。語れば、それはなる!
私たちは肉にある者であるが、肉に従って生きるものではない(Rom 8:4;2Cor 10:3)。霊に従う者。霊の領域を物理領域に現す者だ。このとき神は私たちの唇の実を創造される(Isa 57:19)。かくしてそれは天になるとおり、地にもなる。神の国は地に降りてくる。究極にはエクレシアの完成である新エルサレムは地上に下るのだ!

ヘブル語における”言葉(dabar)”はマター・実際・実質を意味する。それは単なるラベルではない。言葉が軽く扱われている現代、このことはサタンの策略そのものであると指摘する。ヴィットゲンシュタインは「言葉は世界の映像である」と言った。が、聖書では言葉は実質であると言う。神が言葉を発すると世界は創造されたのだ。
アインシュタインは言った、人間が想像することは必ず実現すると。聖書も人が思い計ることは妨げられないという(Gen 11:6)。マインドの想念は言葉となり、言葉には創造のパワーがある。
語り出された言葉、レーマはフェイスそのもの。フェイスとは使徒信条の告白や懸命に努力して、信じます、信じます、とやることではない。神の声を聞いたら、それが即フェイス。内なる霊に共鳴する神の霊のバイブレーションが魂のマインドにおいて言語化あるいは映像化される。すると心にそれが焼き付けられる。その時点で、体に症状があろうと、目の前にまだカネがなかろうと、問題がそのままであろうと、すでに得たと分かる。すると不思議なほどに笑いがこみ上げるのだ。
繰り返すが、ちょうど宝くじの当選券を持っているようなもの。霊的領域のサブスタンスは真理(Truth)、この五感の世界の現象は事実(facts)。私たちは事実を取り扱うのではない。真理を、今、ここに、下ろすのだ。どうやって? 語ることによる。言葉にはリアリティーを作り出すパワーがある。ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ。take dominion! ねじ伏せても事実を真理に従わせること。
神のバイブレーションに共振して私たちの口から語り出されたことばは神のことばそのもの。人なるイエスは同じメカニズムでわざをなされた。彼の語ったことばは父のロゴス、彼のわざは父のわざ。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。-John 14:10
ゆえに私たちもイエスと全く同じわざ、さらにそれ以上のわざをなし得るのだ。根拠は、イエスが父の元に行かれるから(John 14:12)。私たちが霊的に形成されているとか、難行苦行しているとか、素晴らしい人格を持っているとか、一切関係ない! それはイエスのあり方に基づくこと。この意味ですべてはスーパーナチュラル。しかもそれはフェイスに生きるわれわれにとってはナチュラル。癒しも奇跡も全ては当たり前のことなのだ。
鍵は、フェイスの覚醒。私たちは自分が「信仰」と思っていたことが実はフェイスではないことに気がつく時が来る。フェイスって何? この疑問に立ち至った人は、実は幸い。今、ここで、永遠のNOWが切り込んでくる経験。フェイス! WOW!

よくニューエイジ系では”mind over matter”という。物質を精神でコントロールできるというわけ。確かにアダムに対する神の当初の委託は
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。-Gen 1:28
この「地を従わせよ」の原語はStrongによると
kâbash
kaw-bash’
A primitive root; to tread down; hence negatively to disregard; positively to conquer, subjugate, violate: – bring into bondage, force, keep under, subdue, bring into subjection.
と、かなり強い意味がある。力づく的な要素もあるのだ。で、地(ertz)を征服せよ、服従させよ、束縛せよ、足下に置け・・・など。これってどういうこと? 地面を従わせる? はあ? 「地」の意味はかなり広範であり、Strongによれば、地面の他に国々、道路、荒地、そして世界の意味がある。イエスは言われた、御心が天になるとおり、地にもなるように祈れと。そして神の国は激しく襲われているとも(Matt 11:12)。KJVでは”suffer violence”、要するに暴力的なのだ。まことに創世記の命令と対応する。
マルコで足萎えを家の屋根をぶち抜いてイエスの赦しと癒しを受ける行為などまさにバイオレント(Mark 2:4)。盲人の目につばでこねた泥塗りたくり、目も空いてないままにシロアムの池に行って洗えと命じたイエス。メッセでも語っているがシロアムの池は急階段を降りるのだ。はあ、主よ、なんと過酷な要求をされますか?・・・と私たちのマインドは考える。これなどもまさにバイオレント。
あるいは異邦の女が娘の癒しを求めた際、犬に与えるパンはないと言われたイエス。が、その言葉をとってイエスの真意に応じた女。これがフェイスだ。現在のキリスト教のなよなよした自己憐憫的な光景とはまったく相反する。イエスは実にバイオレントかつダイナミックだったのだ。
地を従わせよ!
この命令は実にバイオレントかつダイナミックな命令であり、天を裂いて地に介入されたイエスの行為を見れば、いわゆる「きよく・ただしく・まずしく・うつくしく」といったキリスト教のイメージとは全く異なることが分かる。ツタの絡まるチャペルで乙女が祈りを捧げる・・・といったお上品なものではないのだ。天のサブスタンスをそのまんま地にもたらすこと。それはきわめて力づくの行為。もちろん肉のものではないが・・・。
神の国のパワー、すなわちデゥナミスはダイナマイトの語源。それは炸裂、さらには爆発するのだ! ぶち抜くパワーだ。覚醒せよ、このデュナミスに! 罪、病、欠乏、絶望、束縛・・・これらのおよそ天に相応しくないものを爆破するのだ。そして天の要素、義、健康、豊かさ、希望、解放・・・をもたらすこと。これが福音の力(Rom 1:16)。それはまことに天地創世の時に完成していた神のみわざのNOWise(今・ここに化)である。それは”mind over matter”ではなく、”spirit over matter”である。

引き寄せの法則はニューエイジの用語だが、その霊的法則は聖書がオリジナルである。人は自分の心を言葉に投影してそのとおりを得るのだ。つまり自分にとっての現実は自分の心が作り出している(☞プライベート・リアリティーはマインドが作る)。
人は心にあることを口が語る。何気に語るそのことばがまことの、あなたのそして私のフェイスの表現である。以前、きわめて厳しい事態を通られた方が再び同様の状況にあることを知った。前の時は、エゼキエルの妻のごとく、神が求めるものは取り去られてもやむなしとのニュアンスのことを、すでにその数年前に書いておられた。それが繰り返されようとしている。
フェイスの穴だ。心にある恐れを御言葉によって外見を修飾しているのだ。そこを突かれた。絵に書いたようなハッピーかつ模範的な、だれもが羨むクリスチャンホーム。私も私の家族もその子のことを知っている。幼い頃一緒に遊んだ。人情としてはまことに痛々しい。が、盗み、滅ぼし、殺す者はあの者である。ヨブも自分が試みに会う以前に、恐れから捧げ物を捧げていた。
この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job1:5
FEAR(恐れ)とは霊であり、その侵入を許すと、False (偽りの) Expectation (期待が) Appearing (現出して) Real (現実となる)。かくしてヨブは告白する―
自分の恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
神は決して私たちを試みることはない。
試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受け得ない方であるし、自身誰をも試みたりはなさならからである。各自が自分の欲望によって引きずり出され、誘い出されて、試みられているのである。-James 1:13-14
「誘い出され」の意味は罠にはまること。「欲望」とあるのはいわゆる快楽を求めるようなことだけではない。それは肉の思い。恐れや不安なども含まれる。肉の思いは神に敵対するのだ(Rom 8:7)。恐れや不安をいだくとき、それはサタンの領域と直結し、死の霊の流れを招き、神の恵みや力(デゥナミス)の流れの障害となる。繰り返すが、もっとも主が言われた教えは「恐るな!」だ。ややこしい霊的形成がどうのこうのではないのだ。フェイスはシンプル。求めよ、聞け、信じよ、そして語れ!
人は自分の心の中にあるものが”IT(それ)”を招いているのだ。次々に不幸に見舞われる人。何度も男に貢いでは騙される女。何をやっても惨めになる男。病気に病気の辛酸を舐めるもの。それは神の訓練でもないし、それによって練られるわけでもない。前にイジメの問題で、相手に立ち向かえと指摘した時に、S氏が抗議してきた。立ち向かえなどは混乱を招くだけ、イジメられる中で人は成長するのだ! 巧妙な偽りである。偽りを語るならば必ずそのとおりの試みを受ける。フェイスの穴を突かれるからだ。
しばしば人はヨブの言葉を以って事態を正当化する。神は与え、また神は取られる、と。が、この発言は迷いの中にあるヨブの心の吐露である。それは神に冤罪を被せること。現にヨブは塵灰を被って、完全に悔い改めであろう。自分は無知をもって神の経綸を暗くしていた、と。神を有責者としてはならない。
何を守るよりも、自分の心を守れ。そこから命のすべてが湧き上がる。-Prov 4:23
マインドのマトリックスを書き換えよ。再度指摘する、神に服し、悪魔に立ち向かえ。悪魔は逃げ去る!(James 4:7) 悪魔こそが盗み、滅ぼし、殺す者。イエスはその者のわざを滅ぼすために来られた。神はいのちを与え、しかも豊かに与える神である(John 10:10;1Cor 15:45)。

いつもの再建主義の富井氏の論。救いとは神学の問題ではなく、新しく生まれること、ニュークリーチャーとなることなのだが・・・。キ業界にトロイの木馬が仕掛けられていることはその通りだ。またプロテスタントの根底は誤りだと極私的にも指摘しているが、ちょっと彼とは立場が異なる。
tomi 2018/02/19(月) 18:14 福音派は悪魔教に乗っ取られた
そのとおりだと思います。ただジェームズ1世は、王権神授説を唱えるフリーメイソンだったという話があります。 ブッシュ家の先祖がこのGun Powder Plotに加担したらしいです。 福音派はイエズス会員になりました。イエズス会の世界支配のために活動するセクトになりました。悪魔教に乗っ取られたので、聖書的な神学が受け入れられなくなった。 メイソンはイギリスを中心とする世界政府を目指したから、ローマ・カトリックを中心とする世界政府を目指すイエズス会と対立したのかもしれません。 しかし、イギリスがEUに参加したことからわかるように、今は、メイソンとイエズス会は協力関係にあるのではないでしょうか。 |

GYMにてスイミングをする際、体重と体脂肪を測定する。現在、それぞれ69.5キロ、10%台後半。ホントはもう少し絞りたい。最近は1,800Calレベルを意識している(もちろん楽しむときは目一杯だが・・・)。高タンパクを意識して、炭水化物はできるだけカット、が、油断すると増える。
ちなみに息子が勤務するある超大企業では昼食代手当が毎日2,000円だとか・・・。はぁ、何食ってんの?って感じだが、人間、食いたいだけ食うと体はぶよぶよになるばかりでなく、老化も進む。スピリチャアルにも鈍くなるし、ブレインも低下する。俳優の榎木孝明氏が30日間の不食を行った際、食べないと感受性が高まり、頭脳も冴えると証言していた。聖書でも断食を勧めている。
このボディは霊(spirit)と魂(soul)を入れる容器に過ぎず、いわゆる物理的サブスタンスと接触し、五感によって支配されている。現代人は五感の奴隷になっていると言える。つまり五感で感知する世界のみがリアリティーと思い込んでいるのだ。五感のカプセルに幽閉されている。
霊の機能であるフェイスは五感を超えた世界をリアルなものとして経験できる。つまりシックスセンスなのだ。映画『スターウォーズ』のフォースはバイブルのフェイスのパクリ。フォースによって遠くを見ることも、未来を知ることもできる。これは元々フェイスのパワーだ。末期のガンすらも癒される。フェイスの覚醒。これ、終末を生きる人類の究極のテーマ。それは聖霊とわれわれの霊の相互作用による。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。-ローマ8:16
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。-ヨハネ16:13
ここで大切な点は、今回のメッセでも語ったが、霊と魂の切り分けがなされること(Heb 4:12)。このとき霊は五感(魂)の波動を受けることなく、臨在を常に楽しみ、聖霊の声を明確に聞くことができるようになる(☞霊と魂の分離について)。
ちなみに五感に縛られない生き方は老子も言っている(第五十二章)。
其の兌(あな)を塞(ふさ)ぎ 其の門を閉じれば 終身勤せず
其の兌を開き 其の事を済(な)せば 終身救われず
人間の身体にある穴を開きっぱなしにし、その感覚を貪ると心身は消耗するが、それらをふさげば健やかに生きることができる、というわけ。まずは食を支配すること。争いはすべて食を巡ることが原因なのだ。資本主義も共産主義も、一見高尚な思想体系に見えるが、元を正せば、いかにして食うか、が起源。
対してイエスは言われた―
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。・・・ 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。-マタイ6:25-27

●MSGタイトル:霊の城壁を再建する
●聖書個所:Neh 2:17-18;2Cor 10:4;Acts 16:16;Job 21:23-25;Deut 34:37など
●2018年2月25日(日)のセレブ:
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship®
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●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
全国有名書店で発売中
電子書籍化決定
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
●楽天にて:最初はとっつきにくかったです。というのは、カタカナ日本語多すぎます!でも、彼のyoutube聞き始めて、とってもおもしろくなってきたので、とうとう読み始めました☆内容は本当にアーメン!(まことにその通り)です☆すばらしいね☆Youtubeと一緒にみるのがおすすめです。

ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。-Ps 8:5-6
この聖句が意味することは何か?YoungのLiteral Translationにはこうある:
And causest him to lack a little of? Godhead, And with honour and majesty compassest him.
Godheadに至るにはわずかに不足していると。隙間があるのだ。Godheadとは神のPersons、すなわち神格だ(人ならば人格だが)。が、人はよろずの物を足の下にするものとして造られた。すなわち統治(Dominion)である。さて、歴史にIFはないが、IF、エデンの園でアダムとエバがいのちの木の実をとっていたら・・・?
そう、彼らはGodheadに至ることができたのだ。もともと彼らの霊は神の息。すなわち神の霊だ。つまり人間は創造時点で神的存在だった。だから彼らが動物を呼ぶとそのアイデンティティーが決定し、地(=物理的世界)を治めよと命じられた。これは堕落後もサイエンスにより部分的には成就している。人類はその知性により物理的世界を相当程度治めている。が、神の統治は知性によるものではない。いのち(=ゾーエ)による統治である。
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストによるいのちにあって支配するようになるのです。-Rom 5:17
それは自然法則を超える、つまりスーパーナチュラル。いわゆるしるしや不思議は当然として、奇跡的癒しや死者の蘇生なども起こるのだ。自分の身体に何かの兆候が出たとする。大抵は医師に検査してもらい、必要ならば処置を受ける。これは一般恩恵として、サイエンスによる物理的事象の統治である。
しかしそのキャパを超える事象に対しては人類は未だに無力だ。なぜ? 神に至るにはわずかに欠損があるからだ。このわずか欠損をサイエンティストは必死で埋めようとしている。が、それは決して埋められないのだ。それを埋めるのはイエスの血のみ! 否、埋めるにとどまらず、さらにわれわれを神格へともたらす。神と人が結合されるのだ!
しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。-1Cor 6:17
キリストは肉において現れた神だ(1Tim 3:16)。彼は生まれながらに聖霊の内住を得ており、ヨハネからバプテスマされたとき、外側も聖霊で満たされた。その肉体には罪(Sin、いわゆる原罪)はなかった。ゆえに100%、自由に神をご自分の魂と体をとおして現出させることができた。
われわれはどうか。元々は罪の中に生まれ、原罪を継承し、魂と体はその影響下に条件づけされている。これが古き人であり、またその痕跡である肉を構成する。存在論的に古き人は十字架で抹殺されたが、この旧き体の大脳や神経系は古い条件づけを受けている。ゆえにマインドのリニューアルによるトランスフォーメーションが必要とされる(Rom 12:1-2)。ゆえにパウロは「古い人を脱ぎ捨てよ」とも命じている(Eph 4:22)。
ここで間違わないようにしてほしいが、すでに肉は十字架につけてしまったとある(Gal 5:24)。その事実(=霊的サブスタンス)に基づいて、それをフェイスにより適用することであって、肉と格闘することではない[1]ニッポンキ業界のボクシたちの説教、肉を十字架につけてぇ~などは偽り。われわれは肉に対して責任を負っていない(Rom 8:12)。。御霊がそれをしてくださる(Gal 5:17;Rom 8:13)。
今やすでにわれわれはエロヒムの霊を分かち与えられ(1John 4:13)、エロヒムから生まれ(John 3:6-8)、キリストと共に復活した新創造、新人類、ネオ・ホモサピエンス、ニュークリーチャー、すなわち新生命体なのだ(2Cor 5:17)! これがフェイスにより私の霊において、さらに身体と魂において実体化される。このとき、神が人である私たちをとおして現出される(☞神をエミュレートする)。この点においてはイエスとまったく同じだ。イエスは復活の初穂、われわれのモデルである(1Cor 15:20)。
ゆえにエクレシアはキリストの充満なのだ![2] … Continue reading
このエクレシアはキリストの体、すべてのものをすべてのものの中で満たす方の充満である。-Eph 1:23(岩波訳)
宗教組織や宗教法人、なんと同盟や連盟とか、そんな人間が社会において構成した存在などではない! それは神の奥義(ミステリー)なのだ。神のいのち(ゾーエ)とパワー(デュナミス)がわれわれをとおして現出する。それは内なる神の国の現出とも言える。
新創造とは何か? 神格と結合され、神格がそれから現れる人間である。神が臨在する領域であり、電磁場が宇宙を覆い尽くしているように、われわれも神の霊の場とされる。電波や光はその電磁場の振動、バイブレーション。さらにヒッグス粒子なども場のバイブレーションなのだ。私たちは神の霊のバイブレーションに囲まれている。もちろん内側にもバイブレーションは存在する。
その神の霊のバイブレーションを感知するとき、魂はそれをこの物理的世界の中で感じることができる。魂の一機能であるマインドはそれを言語化あるいは映像化し、私たちの身体の口が語り出す。内なる神のロゴスをレーマにする瞬間だ。するとそれは何かを生じるのだ! 神の言葉を語るとは、聖書を正しく引用することなどではもとよりない。御言葉を解き明かすとか、自分はこう考えるとか、御言葉を弄ぶべきではない。バイブレーションに形を与えること。
このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11
人を生かすのは霊であり、肉は何の役にも立たない。わたしが話した言葉は霊であり、またいのちである。-John 6:63
イエスは死人や天候、あるいは木に命じた。するとそのとおりになった。それと同じことをわれわれもせよと言われる。どうやって?・・・・こう考える人は罠に落ちている。フェイスによるのだ。フェイスはサブスタンス。願っている実体そのもの。それを語り出すとき、目に見えないものが立証される。これがヘブル書にあるフェイスの定義だ(Heb 11:1)。
フェイスは神の領域にタッチし、そのサブスタンスをこの世界に現出させる。それは神の国の実体化。フェイスには不可能はない。それは神の能力を誘導するからだ!私たちは全能ではない。が、フェイスは全能だ。なぜ? フェイスは神の霊そのものとも言えるからだ。つまりフェイスは神から発出する霊である(2Cor 4:13)。われわれと神格を結合し、三位一体の神格との交わりを可能にする。
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて完成されているのです。-Col 2:9-10
Amplifiedにはこうある―
9For in Him all the fullness of Deity (the Godhead) dwells in bodily form [completely expressing the divine essence of God].10And in Him you have been made complete [achieving spiritual stature through Christ]….
キリストの内には神格のすべて住まわれ、そのキリストのうちにある私たちも完成されている! つまりキリストの人性を通して、私たちは神格と結合されるのだ。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。-1John 1:3
かくして私たちは神の栄光に与る(Rom 15:7;1Cor 2:7)。これはすべてフェイスによる、ゆえにフェイスはI-AMの実体化だ。われわれが「神になる」のではない[3] … Continue reading。神たる方がすでにわれわれの霊と結合されている。その方がわれわれを通して現出するのだ。イエスは変貌の山でそれをデモンストレーションされた。私たちも同じことを経験する。内なる神が自分をとおして輝き現れる。これはニューエイジャー[4]ニューエイジの問題についてこちらを参照のこと。が言うアセンションと言っても良いかもしれない(まあ、言葉遊びにすぎないが・・・)。
イエスもすべてのわざを人としてなされた。もともとイエスは神、ゆえに全能だ。が、彼はあくまでも人として生き、人として御業をなさった。ゆえに私たちにも可能性が開けるのだ。彼が単に神として振舞っていたら、われわれは置いてきぼりをくらうだけ。神が人をとおして現出される奥義。これが敬虔の奥義である。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。-Act 10:38
ナザレのイエスは人としての彼の名、ゆえに聖霊と力を注がれて、神が共におられたゆえに・・・なのだ。かくして同じことがわれわれもなし得る(John 14:12)。神の国はロゴスにではなく、パワーにあるのだから(1Cor 4:20)。五感の領域を超えよ。五感に束縛されるな。あなたの本質は霊であり、それは神なのだ。それを知るのはフェイス!
フェイスに覚醒せよ!
References[+]
↑1 | ニッポンキ業界のボクシたちの説教、肉を十字架につけてぇ~などは偽り。われわれは肉に対して責任を負っていない(Rom 8:12)。 |
---|---|
↑2 | 「満たすところ」と邦訳はなっているが、<エクレシア=ところ>ではない! ところがあって、そこに聖霊さまが充満するというのが聖霊派だ。それは誤り。<エクレシア=その方の充満>。つまりキリストの成分そものである。ここはよくよく読んでほしい。 |
↑3 | Elohimを「神」、YaHaWeHを「主」と訳すことが誤りである。われわれの霊はElohimの霊、しかしわれわれはYaHaWeHではない。YaHaWeH=父・子・聖霊の交わりに参与するのだ。ペテロは「神の本性に与る」と表現している。 |
↑4 | ニューエイジの問題についてこちらを参照のこと。 |

私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・・第三の天にまで引き上げられました。 私はこの人が、-それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。- パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。-2Cor 12:1-5
パウロは第三の天に上げられたが、そこで見たこと聞いたことを14年間も秘匿していた。しかも彼はこれだけでその詳細はほとんど語っていない。
イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」-Luke 8:10
神の国の教えは一般の人々には愚かなもの、幼稚なもの、役に立たないもの、カネにはならないし、社会的出世にも、自分の業績にも貢献はしないもの・・・と思われている。しかしこの秘密、musterionを知った者にとってはやばい。そう、それはミステリーなのだ。奥義。ギリシャ語の原義は”to shut the mouth”(Strong)、口を塞ぐこと。WOW!
このミステリーを見たものは口を閉ざす。なぜ? それは誰にでも許されているものではないからだ。いわゆるキリスト教徒になるとか、洗礼を受けるとか、陪餐会員であるとか、牧師だとか神父だとか、正統神学を知ってるとか・・・、そんなこととはまったく✩カ✩ン✩ケ✩イ✩ない。神がそれを見ることを許された者にのみ与えられる特権なのだ。これを見ればむしろ口を閉ざす。あれ、ちょっと待てよ。これはやばい・・・と。
フェイス・アウェイクン!

マイPCの奥底から面白い文書が出てきました。どこから入手したか不明???
ヘンドリック・クレ-マ-なるオランダの宗教学者による『日本の教会に対する批判』なる文書です。ぼくとほぼ同じことを言っておられるではないか。1960年から何も変わっていないわけ、このニッポンキ業界はね。窒息寸前で、あげくクリスチャントゥデイなどの侵食を許して・・・惨。
同氏はすでに故人。1960 年秋、日本基督教団の招きで来日。2ヶ月間、国内各地の教会関係者を歴訪。帰国の際の報告講演が上記の文書である。彼の主著は「信徒の神学」(60 年、新教出版社刊)。

この京大の研究は実に興味深い。音が細胞に影響し、DNAの遺伝子応答を引き起こすと。
これまで音(可聴域音波)は、耳などの感覚器によって受容され、脳によって統合解釈されることで、はじめて生命にとって意味のある情報になるものと捉えられてきました。本研究では、この「常識」にチャレンジし、音が直接細胞に作用して遺伝子応答を引き起こすことを示す結果を得ています。今後も、生命にとって音とは何なのか、独自の切り口から考えていきます。
ソルフェジオ周波数については、ややニューエイジ的要素があるものの、以前に紹介したことがあるが、DNAを修復する可能性が指摘されていた(☞DNAの不思議)。われわれは生体にとって適切なバイブレーションに浸ることが大切なのだ。もちろんもっとも最高のそれは神のバイブレーションである。
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響き(バイブレーション)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19:2-5
私たちのセレブでは霊と真理のバランスを大切にしている。真理はかなり深いものを提示しているが、それは単なるオツムの知識ではなく、霊の流れに浸る時、霊からから魂の各領域に浸透する。特にマインドが古いアダム系のマトリックスから新しいキリスト系のマインドへと書き換えられる(Rom 12:2)。こうして神の御旨を明確に知ることができるようになるのだ。霊と真理による礼拝者を父は求めているのだ(John 4:23)。
ちなみに音楽は数学だ。なぜ、音階は「ドレミファソラシド」なのか。これ、小学校以来の謎だった。が、私にとっての大発見は、ピアノの鍵盤は等比数列[1]元々はピタゴラス音階なるものがある。これはオクターブをある分数比で分けたものだが、近似的に等比数列を採用した者が平均律。。これがわかったら、音楽理論がパーっと見えた。なんだ数学じゃん!小学生以来、音楽は得体のしれないものだったのだ。なんでこれを先に教えてくれないのか?1度、2度とか、短、長、減、増とか、訳のわからん数え方をしてるから混乱するのだ!
要するに1オクターブ上がると周波数が2倍、その間を等比数列で8段階で刻んだもの(半音では12段階。つまり公比が2の12乗根)。これが平均律だ。ピタゴラス音階や純正律とは微妙にずれるが[2]これらは平行移動ができないために転調が難しい。、平均律は平行移動が可能、ゆえに転調ができる。で、全音と半音の組み合わせで、明るく聞こえたり、悲しく聞こえたりする。これが長調と短調。さらに大脳は1-3-5度の和音をキモチいいと感じる。協和音だ。これって、なぜ?理由は不明。大脳がそう造られているからとしか言えない。
ちなみに現在の基準のAは440Hz。これがどうもメンタルにいろいろ不都合をするらしい。ビートルズの曲やロックが精神を壊す可能性が指摘されている。人間の精神にはA=432Hzがいいらしいのだ。440Hz の調律は緊張、興奮、闘争心、などをもたらす傾向を持ち、432Hz の調律は安定、安寧、脱力をもたらす傾向があるらしい。Jazzは協和音を微妙に崩して、ぎりぎりの緊張感を生んだり、開放感をもたらしたりで、楽しむ。わがwifeもそうだが、クラシックピアノができると譜面は読めてもコード理論やJazzは分からないのだとか。
最近ではソルフェジオ周波数とかが注目され、ストレスの癒やしやDNA修復までしてくれるとか。かくして世はすべからく数学、数学は言語。つまり世界は言語の体系。大脳はその言語体系を解釈する能力をなぜかア・プリオリに有している。それは自然の業? 自然は等比数列が好きなのだろうか? 誰かがコーディングしたというのが私の結論。その誰かとはだれ? もちろん・・・。
さて、上の実験、ご自分で比較してみてください。極私的には440は険が立つ感じ・・・。健やかなバイブレーションに霊・魂・体を浸すこと。これはあらゆる面での健康にとってのカギなのだ。


クリスチャンと称する人々でもフラストレーションを抱え、自分の状況や人生、さらに自分自身を呪っている者がけっこう多い。私はこんなに努力したのに、思うようにならない;子供もダンナも自分の気持ちを分かってくれない;周りの人々も自分の苦しみを理解してくれない;神様も私がこんなに信じてるのに何もしてくれない・・・・。彼らは自分の口で神と自分を呪っていることに気がつかない。実はすべては自分のマインドの投影である。
人はその魂で考えるとおりの者である。-Prov 23:7[1]「心で」ではなく、「魂で」が正確
これ、ニューエイジでは「引き寄せの法則」などというが、真理である。いわゆるキリスト教の方が霊的法則に関しては無知というか、あえて避けている傾向がある。それで●●神学や✖✖神学でオツムだけの空転現象を起こしている。ジューシーさの抜けた筋張ったステーキを食わされているだけ。
主イエスの言葉はこうだ:あなたの信じたとおりになるように(Matt 8:13)。今の私たちが、今の状態であるのは、自分が信じていることの投影である。ヨブはそう証言している:自分の恐れていたことが起こった、と(Job 3:25)。よくガンに罹る人が言う言葉がある、やっぱり恐れていたとおりになってしまったと・・・。
FEARとは”False Expectation Appearing Real”、まことにネガティブなフェイスの実体化だ。神がヨブを試みたのではない。すでに彼のフェイスに穴が空いていた。彼は犠牲を捧げるのも、恐れによって行っていた(Job 1:5)。そこにサタンが付け入ったのだ。そこで神はむしろヨブ自身を保護したのだ。神はなぜこんなに正しい人を試みるのか、とか、この人が癒されないのは信仰がないというのか、とか・・・これらの神に対する告発はその人のフェイスの穴を証明していている。
肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7
では、何をどう信じるのか。一生懸命「使徒信条」を告白してもそれは意味がない。あなたのサブ・コンシャス(無意識)の層で信じていることがあなたのホントのフェイスなのだから。いわゆる聖書勉強をしたところで、この層に変革がなされないのであれば、裏切られるだけであろう。よく、自分はこんなに一生懸命に聖書を学んでいるのに、そしてそれを一生懸命告白しているのに、思わしい結果が得られない、とつぶやく向きがある。
はっきりと言うが、あなたは本当には信じていないのだ。イエスの打たれた傷により癒された、と何度も繰り返しても、あなたのサブ・コンシャスの層がそれを信じていない。そこにフェイスが生きていない。ゆえに癒しは現れない。まことに
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。-Luke 6:45
あなたのフェイスは何気に、ふと口にするその言葉に現れている。むしろ意識のタガが外れたとき、あなたのフェイスは現れる。だから真に信じている人は、ふと意識が離れるとき、癒しを受けるのだ。癒されるのはいつか、いつか・・・と絶えず意識している人は、逆になかなか癒しが現れない。あなたの意識がむしろ邪魔をしているから。
自分にとっての「世界」は自分自身のフェイスの投影である(☞プライベートリアリティーはマインドが作る)。あなたが、世の中はこうこう・・・・とつぶやくとき、それはあなたの内的世界を表現しているのだ。あなたはあなた自身に向かってつぶやいているにすぎない。今のあなたの状態、あなたの人生、あなたの健康・・・これらはすべてのあなたの自身のフェイスの投影である。まことに信じたとおりになっているのだ。
では、そこから抜ける鍵は。すでに何度も繰り返しているが、アイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスに覚醒すること(☞iPAIの覚醒)。意識の層だけでなく、無意識の層にまで聖霊のタッチを受けること。自然と、力を抜いている、何気な状態のときの自分の感情や言葉をよく観察すること。果たしてそれは御言葉の啓示にマッチしているかどうか。もし、いなかったら?
ただちに、イエスの血をとり、悔い改めること。悔い改めとは後悔することではない[2]メタノイアは「思い改め」が適切だが、慣例的単語を使っておく。。マインドの向きを変えること。まずは意識的に御言葉の真理を選ぶ。このときに少なからず葛藤はある。が、聖霊に頼るのだ。それはスーパーナチュラル。このとき御霊は肉を処理してくださる(Gal 5:16-17)。究極的にサブ・コンシャスが書き換えられ、その層において御言葉が生きるとき、それは私のフェイスとなり、それが外側に反映される。まことにみ言葉どおりであると経験することになるのだ!
あなたの魂が健やかに繁栄しているように、あらゆることで繁栄するように-1John 1:3
References[+]
↑1 | 「心で」ではなく、「魂で」が正確 |
---|---|
↑2 | メタノイアは「思い改め」が適切だが、慣例的単語を使っておく。 |

われわれが経験する最も美しいものは神秘である。それこそがすべての芸術とサイエンスの源である。-A.アインシュタイン
彼は人格の神ではないが、自然の神秘を知っている。
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。-ローマ1:20
われわれはさらに進み、その神秘そのものと溶け合うのだ。
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘(ミュステリオン)としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。-1コリント2:7
このミュステリオンに入り込み、経験し、味わうこと。これがクリスチャンの生だ。

TODAY’S CELEBRATION Feb 11, 2018:フェイスにより主の心を動かす
●MSGタイトル:フェイスにより主の心を動かす ●聖書個所:G …
●MSGタイトル:フェイスにより主の心を動かす
●聖書個所:Gen 2:18;3:9-13;18:23-25;Exo 34:8-9;2Sam 7:25;Matt 8:8;15:17など
●2018年2月18日(日)のセレブ:
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:Kingdom Fellowship®
●YouTube:Dr.Luke’s Kingdom Fellowship Celebration
●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
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電子書籍化決定
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
●楽天にて:最初はとっつきにくかったです。というのは、カタカナ日本語多すぎます!でも、彼のyoutube聞き始めて、とってもおもしろくなってきたので、とうとう読み始めました☆内容は本当にアーメン!(まことにその通り)です☆すばらしいね☆Youtubeと一緒にみるのがおすすめです。