フェイス

エミュナは時空を超える永遠のNOWを味わう

「フェイスはNOWだ」とつねに語っている。私たちの霊は御霊から生まれた(John 3:6)。それはエロヒムのいのちの霊であり、YHWHエロヒムはご自分の霊を分かち与えて下さったのだ。霊なる神は時空間を超えるお方。その方の霊をわれわれは分与されている。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1John 4:13

私たちのボディは神の神殿である。魂(知性・感情・意志)は霊と体の狭間にあって、神の言葉・指令か、肉体すなわち五感の情報か、どちらかを選んで、内的にアセスメントして、それを言葉や行動として表現する。かつてメッセでも語った。天の国籍を持つことは、天の会話に与ることである。

私という存在の本質は、肉体ではない。さらに魂でもない。霊である。外なる人は滅びるが、うちなる人は日々新たにされる(2Cor 4:16)。それは神のいのちそのもの、すなわちキリストご自身が住まわれるわれわれの霊である。そのキリストのマインドをわれわれは持っている(1Cor 2:16)。キリストのマインドは霊的なものであり、そのマインドが私たちのマインドに浸透する。ゆえにパウロは思いの霊において新たにされよ、という(Eph 4:23;邦語訳はいずれも誤訳)。キリストは今や肉体に束縛されることのないいのちを与える霊である(1Cor 15:45)。

かくして信仰という単語はまことに不適切であると何度も指摘しているとおりである。信じて、仰ぐ?ノー。それはピスティス。視力、聴力などの五感を超えた信力だ。シックスセンスなのだ。私たちの魂由来のものではない。五感の領域のものではない。肉のものではない。それは霊の領域のセンスであり、アビリティである。

しかも、イエスはこう言われる。神の信を持て、と(Mark 11:22)。さらに、私は死んで、もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は御子の信によって生きるのである(Gal 2:20)。はあ?私は死んだ。でも生きている?これは霊の領域の事実と五感の領域の事実を混同することによる混乱。

私たちの霊は私たち自身の本質であり、それは時空間を超える。時間と空間に縛られない。ゆえに私たちは霊においてはアブラハムやダビデ、新訳の弟子たち、そしてイエスご自身と交わることができる。神と交わるとはタイムを超えた世界の、スーパーナチュラルな現象なのだ。が、一方で肉にあって私は五感の領域に生きている。これは五感の経験だ。その五感の領域にキリストのマインド、神の愛という霊的サブスタンスが実体化される。

だから、霊なる神の甘い愛に浸ることが出来るし、聖霊の慰めにもあずかることが可能なのだ。ゆえにこのような内的経験はスーパーナチュラル。そもそもなんでキリストとともに私は死に、復活することができるわけ?もっと言えば、天地創世の時にすでに十字架も存在し、神のわざは完成されていたのだ。

地上に住む者で、天地創造の時から屠られていた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-Rev 13:81)邦訳では「天地創造の時から、・・・その名が記されていない」として、名前の記載が天地創造の時にあるかのように訳されるが、句読点は不適切。「天地創造の時から屠られていた小羊」が正解である。

もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3

この霊的リアリティーを<今・ここに>現出するパワーがフェイスである。それはスーパーナチュラルなシックスセンスだ。キリスト教なる呪縛のマトリックスを離脱せよ!

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、見ていない事の現出である。-Heb 11:12)この「事」についてVincentはこう指摘する:Of things (πραγμάτων)-Πρᾶγμα is, strictly, a thing done; an accomplished fact. It introduces a wider conception than ἐλπιζομένων things hoped for; embracing not only future realities, but all that does not fall under the cognizance of the senses, whether past, present, or future. すなわち感覚でセンスされにないすべての成し遂げられた事実、過去・現在・未来によらず、とする。

要するにタイムトラベルなのだ。かくして私たちのは時間と空間を超える神的能力であり、さらに時間と空間を統治することができるのだ3)たとえば宇宙を見るとき、電磁波を観測するが、それは過去の世界。つまり宇宙には多元時空構造が展開しているのだ。その電磁波をマクスウェル方程式に基づいてコントロールする時、TVやスマホとして使うことができる。つまり電磁波を統治・支配しているのだ。霊的領域のサブスタンスも同じように、フェイスにより制御することが可能。すると五感の領域にそれが現出するわけ。このパワーがフェイス。エロヒムも同じように、自らのフェイスを語り出すことにより創造のわざをなされたのだ。。・・・と、これから先は私の著書『神の新創造-聖書に啓示された自然法則を超えるマインドのパワー』をお読みください。

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1. 邦訳では「天地創造の時から、・・・その名が記されていない」として、名前の記載が天地創造の時にあるかのように訳されるが、句読点は不適切。「天地創造の時から屠られていた小羊」が正解である。
2. この「事」についてVincentはこう指摘する:Of things (πραγμάτων)-Πρᾶγμα is, strictly, a thing done; an accomplished fact. It introduces a wider conception than ἐλπιζομένων things hoped for; embracing not only future realities, but all that does not fall under the cognizance of the senses, whether past, present, or future. すなわち感覚でセンスされにないすべての成し遂げられた事実、過去・現在・未来によらず、とする。
3. たとえば宇宙を見るとき、電磁波を観測するが、それは過去の世界。つまり宇宙には多元時空構造が展開しているのだ。その電磁波をマクスウェル方程式に基づいてコントロールする時、TVやスマホとして使うことができる。つまり電磁波を統治・支配しているのだ。霊的領域のサブスタンスも同じように、フェイスにより制御することが可能。すると五感の領域にそれが現出するわけ。このパワーがフェイス。エロヒムも同じように、自らのフェイスを語り出すことにより創造のわざをなされたのだ。
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