
このことは極私的に常に主張している。特に日本語マトリックスの罠は深い。例えば、霊と魂の違い。これがほとんど混同されているゆえに、フェイスが明確ではなくなる。ヘブル4:12にでは霊と魂の切り分けが大切と言われているのにだ(Heb 4:12)。
このフェイスも「信仰(信じて仰ぐ)」と考えた時点でニッポンキリスト教なるタコツボ的宗教ができることは何度も指摘している。ギリシャ語では”pistis”だが、特にヘブル語のフェイスに対する単語”emunah”には実に深い豊かな意味がある(⇒Emunahの奥義)。
義人はフェイスによって生きる。-Hab 2:4
実に有名な聖句であるが、その意味は必ずしも正確に理解されているとは思えない。ここのフェイスとは”emunah”であり、その語源は”emun” (確立している;確固たる)、さらにその語源は”aman” (建て上げられた;支持する;両親が養育する)であり、それは「アーメン」である。「アーメン」とは単に「同意する」の意味のみでなく、実は最も高きエロヒムなるYHWH(יהוה)の名前そのものである。神の名は「アーメン」(⇒神の御名)。
それゆえ、地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。-Isa 65:16
この「真実の神」と訳されている部分は「アーメンなるエロヒム」である。また
アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかた・・・-Rev 3:14
言語では「ザ・アーメン」とある。つまり「アーメン」とはその方ご自身であり、御名でもあるのだ。ゆえに”emunah”はアーメンたる方に由来するのだ。そこで主はこう言われた:
神のフェイスを持て。-Mark 11:22
神を信じなさい、ではない! またパウロはこう言っている:
生きているのはもはや私ではない。・・・肉にあって生きている私は・・・御子のフェイスによって生きる。-Gal 2:20
フェイスとは霊であり(2Cor 4:13)、その霊はアーメンたるお方の霊である。生まれながらの私たち由来のものではない。ニッポンキリスト教で「われはナントカを信ず~」と使徒信条告白するようなものではないのだ。それはスーパーナチュラルなシックスセンス。神がご自身の霊を分けて下さった(ディスペンス)ときに得た五感を超える新しい能力である。ゆえにパウロはこう証言する:
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。-Rom 12:3
さらに”emunah”には深いイメージがある。ヘブル語のアルファベットはすべて子音であるが、それは絵文字(ピクトグラム)としての意味を持つ[1] … Continue reading。ちなみにヘブルアルファベットでは”hnma“だ(ニクダ・母音記号は省略)。さて、そのピクトグラムの意味を見ると:
ℵ:雄牛→力・権威、m:水→言葉、n:種→子孫・継承、h:窓→見る・呼吸
つまり、それは「神の権威により、御言葉の種によって継承され、霊の世界を見てまた呼吸すること」である。霊とは息であり、祈りは霊の呼吸だ。かくして日本語の「信じて仰ぐ」とはかなり内容に相違が生まれることが分かると思う。
かくのごとく日本語で聖書の真理を考えてはならないと私はずっと主張してきているが、それは、実は、聖書の主張するところでもある。
その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、すべて彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる。-Zeph 3:9
これもすでに邦語訳では意味の欠損と相違が生じているが、まずはKJVで見ると次のようになる。
For then will I turn to the people a pure language, that they may all call upon the name of the LORD, to serve him with one consent.
「くちびる=言語(language)、清き=ピュア(pure)、与え=ひっくり返す(turn to)」である。ヘブル語では
「שָׂפָה=くちびる・言語、אֶהְפֹּךְ=ひっくり返す・変革する、בְרוּרָה=清くされる」。この最後の単語の原型は”rrb”(バラール、ニクダは省略)で、
b:家→家族・国、r:頭→長子・最初(これが二つ)
の意味があり、要するに「国の中の最初の人・長子」を意味する。もちろん神の御子ジーザスであることは言わずもがなだ。その御子は神のロゴスの受肉。さらにע(目)を頭に置くと「アーヴァル=渡る・超える」の意味となり、その名詞形は「イヴリー=渡る者」すなわち「ヘブル人」を意味する(☞モーセ)。
かくして私たちは日本語により日本人としての文化・伝統を継承して、そのマトリックスの中で生きてきた者であるが、「渡る」あるいは「転換する」必要があるのだ(☞マトリックスとは何か)。どこから? 日本語マトリックスから神の言語マトリックスへ、である。ゼパニヤ3章9節はかくのごとく、私が常日頃主張している日本語の言語マトリックスを離脱せよ、日本語で聖書真理を考えてはならない、それはニッポンキリスト教なるタコツボ宗教を生み出すだけだの根拠を与えるわけ。
かくしてわれわれはマインドに構築された言語マトリックスと世界観・価値観の体系からエクソダスし、常に神の言語へと渡り続ける必要があるのだ(☞マトリックス・シフテド)。まことにパウロの言う通りである:
この世の形に構成されてはならない。マインドを新たにして作り変えられることにより、神の御旨を知り・・・・-Rom 12:2
マインドのリニューアル&トランスフォーメーション。ゼパニヤ書はまさにこのことを啓示しているのだ。われわれはヤハヴェ・エロヒムの言語体系によってマインドを働かせる必要があるのだ。そのためにはすでにわれわれにはキリストのマインドが与えられている(1Cor 2:16)。このとき、われわれは五感の世界に振り回されない神の意識に生きることができるのだ。
注:ヘブル語フォントがないと正確に表示されません。その場合は英語の対応するアルファベットが表示されますので、ご了承ください。
References
↑1 | すでに創世記の「最初に(ベレシート)神は」の意味は著書『神の新創造-聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密) |
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