フェイス

神の国に入れない者の筆頭は臆病な者-フェイスとは自己放下-

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。-Rev 21:8

この聖句は実に厳粛。信じない者や人殺し、姦淫する者にまさっておくびょうな者がリストされている。おくびょう者は恐れの霊にやられている人。たとえば、メッセでも語ったが、癒しをすっと受ける人は自分を手放している人だ。福音のために自分を注ぎ出す人。対して次々に病に襲われる人は自分を大事にしている人。主のことよりも自分を優先する。セレブよりも病院通いを先にと。

自分を大事大事にしている人はどうも逆に敵に弄ばれてしまう。見かけは信心深いようでも、実は主よりも自分を選んでいるのだ。これは究極の自己欺瞞。聖書はよく知っているし、あれこれの霊的書物もよく読んでいる。が、自分を手放せない。不思議なものだが、おくびょうな人は敵の格好のターゲットになってしまうようだ。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょう(恐れ)の霊ではなく、力と愛と健全な思いの霊です1)邦語訳では慎みの霊となっているが、どうも宗教的あるいは倫理的な価値観を入れる傾向がある。。-2Tim 1:7

恐れはサタンのパワーを、フェイスは神のパワーを誘発する。自分を愛するほどに恐れの霊は力を得る。自分を救おうとするれば失い、自分を失えば得る。勝利への第一歩は自分を手放すこと、自己放擲(ほうてき)にある!

対して、終わりの時代の特徴は-

しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心2)あるいは敬虔。原語はeusebeia、これも日本語マトリックスで理解してはならない。聖書は聖書で定義すること。すなわち1テモテ3:16の定義によれば、神が肉において現れること(1Tim 3:16)。極私的には「フェイスとはI-AMの実体化だ」と言っているが、I-AMなる方がわれわれを通して生き出て下さることである。われわれはI-AMのエミュレーターなのだ(☞神をエミュレートする-God-OS)。を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。-2Tim 3:1-5

何よりも自分自身を愛すること、これが諸悪の根源なのだ。自分の生存を担保するためにカネが必要、カネを得るためにはほらを吹き、いざ得ると高慢になり、神に頼ることがなくなる・・・と、これから諸悪が生み出される。まさに現代はこのような事態が展開していることは誰も否定できない。

よく言われるが、神は自ら助ける者を助ける・・・これを聖書の教えと思っている向きがかなり多いが、真理は真逆である。神は自ら助けない人を助けるのだ。

自分の命(Gk.魂)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命(Gk.魂)を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。-Luke 9:23-24

究極的には、フェイスはキリストかセルフかの選択。フェイスはセルフを手放したところに働く。これが十字架の働きだ。この点、禅では次のように説く-

仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-道元『正法眼蔵-現状公案』

もちろん、禅者の生きるいのちはアダム系のいのち。対してキリスト者はZoeのいのち。いのちの次元の違いはあるが、自己(セルフ)の扱い方は同じ。まことに人類は善と悪を知る知識の木の実を食したところからあらゆる苦悩が始まった。その二元的世界を超えることは禅の目指すところでもある。

この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち 仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛のい のちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、佛のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなか れ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死 をはなれ佛となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。-道元『正法眼蔵-生死』

要するに生と死といった二元的世界に心をとどめると仏の心(本来の自由な心)を失うが、あれこれ心に諮ることなく、言葉を弄することなく、自分を放ち忘れ、仏(万法)に投げ込むとき、その法が自然と物事を成し遂げ、何の力も不要となり、仏(本来のあり方)となることができる。そのとき、心には何も留め置かれることがないのだ・・・3)仏とは礼拝対象でもなければ、創造主でもない。釈迦は解脱した人であり、彼自身自分を拝するなと命じている。仏教の本質は徹底した認識論である。いわゆる創造主の概念は元々ない。クリスチャンの場合、この仏=法とはいのちの御霊の法則である。

この自分を手放すことを「百尺竿頭に一歩を進む」という。百尺の竿の先にあって一歩を踏み出すこと。聖書的には激流のヨルダン川に一歩を踏み出すことだ。すると激流が止まる! まことに善と悪、生と死を離れて、自己放下した者は幸いである。

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1. 邦語訳では慎みの霊となっているが、どうも宗教的あるいは倫理的な価値観を入れる傾向がある。
2. あるいは敬虔。原語はeusebeia、これも日本語マトリックスで理解してはならない。聖書は聖書で定義すること。すなわち1テモテ3:16の定義によれば、神が肉において現れること(1Tim 3:16)。極私的には「フェイスとはI-AMの実体化だ」と言っているが、I-AMなる方がわれわれを通して生き出て下さることである。われわれはI-AMのエミュレーターなのだ(☞神をエミュレートする-God-OS)。
3. 仏とは礼拝対象でもなければ、創造主でもない。釈迦は解脱した人であり、彼自身自分を拝するなと命じている。仏教の本質は徹底した認識論である。いわゆる創造主の概念は元々ない。クリスチャンの場合、この仏=法とはいのちの御霊の法則である。
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