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霊のサブスタンスを語り出せ-Pesach(過ぎ越し)とは口で語ること

わたしたちはキリストのマインドを持っている。-1Cor 2:261)ここもいつもながら邦訳では心とかにされているが、明確にマインド(nous)である。マインドは魂の機能の一部であり、心(kardia)とは霊と魂の相互作用として私たちの内面で展開している事象である。

人は常に何かを思いつつ生きている。思い煩うのが好きな人はあらゆることを問題と感じ、つねに思いをそちらに用いている。カネが好きな人は常にカネを得る算段を思っている。事業に成功することや、政治的影響力を持ちたいとか、何かが常にマインドのうちに去来しているのだ。その思いを知れば、その人が分かる。まことにー

彼はその魂で思いめぐらす通りそのままの人間だ。-Prov 23:7(原文)

では、私たちクリスチャンを何を思うのか。ニッポンキ業界で有名になること。神様に用いられて、自分の能力を十分に発揮し、いわゆる伝道や奉仕に入れ込むこと。大きな会堂を建築し、千人、三千人教会を作ること。このキ業界ではしばしばこのような動機が霊的なものとすり替えられる傾向があるのだ。私たちが思うべきこと、パウロは言う―

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。-2Tim 2:8

聖霊はつねにキリストの言葉とわざとご人格を私たちの霊に啓示される2)いわゆる聖霊派の「聖霊様の油注ぎ~、充満~」といった掛け声は偽りである。聖霊は自ら語ることはないし、ご自身を証しすることもない。ジーザスの言葉を語り、ジーザスを栄光化する霊である。ヨハネ14,16章をよくよく読むべきである。ジーザスは天に戻り、地上は聖霊様とする聖霊派の理解は過ちである。聖霊とジーザスを切り離してはならない。。その啓示された霊のサブスタンスは私たちの魂において、思いとしてあるいは映像として結晶化されたり、感情に神の愛が満ち溢れたりし、主観的に味わうことができる。そして意志決定がなされ、体を用いてそれを言動として表出するのだ。こうして<父⇒子⇒聖霊⇒わたし>と流れる神の意志が五感の領域において実体化されるのである(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。

そこで重要なことはいかにしてキリストのマインドをアクティベートするか。私が何度も何度も「声を出すこと」を強調している理由、それは自分の澱んだマインドから出るためなのだ3)今週のメッセで語ったが、過ぎ越し(Pesach)の意味は、「口(Peh)を以て語る(sach)」ことだ。。人は無意識のうちに自分の魂、特にマインドの習性に従って、その世界に埋没している。セレブでもそうなのだ。自分の思いの閉じ籠っている人は、物理的に体はそこにいてもマインドがセレブの雰囲気にチューニングされていない。

イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』-Matt 13:14-15

これはわれわれにもそのまま適用される。変化しない人は、要するにマインドにベールがかかっているために物理的には御言葉を聞いているが、心では聞いていないのだ。それは

彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。-2Cor 4:4

これはクリスチャンでも言えること。物理的に聞くことと、心、もっと言えば霊で聞くことはまったく異なる。マインドが鈍くなっているため、御言葉が通らない。あるいは自分の何を保つために拒絶することさえある。こういった人はしばしば知的には優れており、知識はたくさんもっているが、霊的にはなかなか頑固であり、容易に変化しない。そこにとどまりたいのだ。

我々の神、主はホレブで仰せになった。「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し・・・-Deut 1:6-7

私が「アーメン」などの応答を求めるのは、このマインドのベールを引き裂くためである。マインドの中にぬくぬくと埋没していることはそこそこ気持ちいいこと。しばしば人は心ここにあらず、フェイスはナウ経験であると何度も指摘しているが、マインドが鈍い人はピンと来ない。したがって、ここで、神が備えてくださったことを受信することできないし、喜びも味わえない。彼らにとっては単なる教義であり、教えに過ぎないのだ。サブスタンスとして、それが彼らの内的リアリティーとならない。

しかし、人は真理に触れるならば、その人から醸されるオーラが変化する(☞霊と魂の場)。不思議なもので、この霊的オーラはすぐに分かってしまう。生活の思い煩いとか、体の心配とか、アレコレに囚われている人はモヤモヤとして、スカッとしたオーラを発散していない。何か籠っているのだ。

それらの纏わりつくものを引き裂くために、セレブにおいては立って、手を挙げて、声を張り上げて、主を賛美する。これが必要なのだ。座ったまま、受け身で、なんとなく時間をやり過ごす傍観者は自分がいかに損失を被っているかに気が付くべきであろう。マインドが主にフォーカスされないままワーシップの時間を過ごすことはけっこうつらいと思うのだ。

自分を否むことはここから始まる。自分を大事大事している人ははっきりというが、セレブに来ても意味がない。なぜ? 霊的な共鳴も、バイブレーションの共有もないからだ。これがあって初めて互いの霊が結びつき、ワーシップが甘く、潤いのある豊かなものとされる。

こうして自分のマインドから出ること。それはキリストのマインドをアクティブにすることフェイスの覚醒-キリストのマインドのアクティベーション)。御言葉はおのずと開けて、そのような人は自然と人手によらず、つまりオーガニックに成長する。私のメッセを聞いてメモしても何の意味もない。そこに流れている霊のバイブレーションを受け、それを共有することが必要なのだ。「教会」って訳語、これで飼い慣らされると、「教えてもらう会」になるだけ。自分から関わること、つまり当事者として霊の流れに参加することできなくなる。これが干からびたキリスト教の儀式となる。セレブがそんなものになるのであれば、やめたほうがいい。

神の国は襲われている! 一人ひとりが自分を裂き、当事者として、セレブを作っていく姿勢を見せること。神のわざはその時にこそなされるのだ。われわれは人を見てはならない。ただジーザスのみに集中すること。そして霊のバイブレーションに共鳴し、内側に得た霊のサブスタンスは語り出すのだ(☞霊のサブスタンスを語り出せ

語り出されたわたしの言葉は虚しく帰ることはない。必ず言い送ったことを成し遂げる。-Isa 55:11

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1. ここもいつもながら邦訳では心とかにされているが、明確にマインド(nous)である。マインドは魂の機能の一部であり、心(kardia)とは霊と魂の相互作用として私たちの内面で展開している事象である。
2. いわゆる聖霊派の「聖霊様の油注ぎ~、充満~」といった掛け声は偽りである。聖霊は自ら語ることはないし、ご自身を証しすることもない。ジーザスの言葉を語り、ジーザスを栄光化する霊である。ヨハネ14,16章をよくよく読むべきである。ジーザスは天に戻り、地上は聖霊様とする聖霊派の理解は過ちである。聖霊とジーザスを切り離してはならない。
3. 今週のメッセで語ったが、過ぎ越し(Pesach)の意味は、「口(Peh)を以て語る(sach)」ことだ。
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