ニュー・スピーシーズとして新しく生まれること

Dr.Luke的日々のココロ

ニュー・スピーシーズとして新しく生まれること

われわれはいわゆるキリスト教徒ではない。今週のメッセでも語ったが、キリスト教徒であっても、クリスチャンすなわち新しくエロヒムから生み出されたニュークリーチャーではない者たちが当たり前に存在する。聖書は宗教書ではなく、生命現象の書であると何度も繰り返している。新しい生命体として生み出され、新しい種とされること。これが聖書の啓示するところだ。

しかし、いわゆる白いキリスト教の教義や正統神学から見ると、ヤバいとみなされるであろう。が、聖書は元々ヤバいことを語っているのであり、人間のマインドに神をはめ込むことなどは到底不可能と知るべきである。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とあるとおりです。-1Cor 2:9

私たちの体と魂は地のもの、それは五感の領域の存在であり、極私的には五感のスーツと呼んでいるが、これは神の国に入ることはできない(1Cor 15:50)。が、私たちの霊はすでに完全であり、それは神聖なもの、神の種(DNA)を宿す神から生まれた存在、つまりエロヒムである(☞Dr.Heiserの解説)。ここで注意してほしいのは最も高きエロヒム、父・子・聖霊の3パースンズにいますYHWHではない。パースンとして父・子・聖霊とは別の存在である。これはある家に生まれた子供は同じDNAを共有するが、人格としては両親と異なるのと同じである。

すべて神から生れたすべては、罪を犯さない。神の種が、そのうちにとどまっているからである。また、それは、神から生れているから、罪を犯すことができない。-1John 3:91)ここを神から生まれた「者」とか、「その人」と訳されているが、誤訳である。原語は”pas”、つまり「すべて」である。それはである(☞神の新創造:神の霊的遺伝子工学)。

この新しく生み出された霊については次のように言われている―

天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊・・・-Heb 12:23

私たちはすでにこの完全なる霊を有している! 神から生まれ、神のDNAを宿す、完全な霊こそがエロヒムの本質である。それはYHWHのファミリーである。こうしてジーザスはわれわの長子となられた(Rom 8:29)。肉の兄弟であっても、人格はそれぞれ異なるが、同じDNAの系列を共有している。それが発現するとき、同じ性質と同じ能力を発揮する。そしてわれわれ、ニュー・スピーシーズはさらにコロサイ書(AMPC)によるとこう定義されている―

For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature].

というのは、のうちにこそ神性の全充満<というかた>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。

And you are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power].

そしてあなたがたはのうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです。≪キリストにあってあなたがたもまた、、すなわち聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです≫。また、は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。

これは『AMPC(詳訳聖書)』におけるVincentの注に基づいた訳である。いのちとはもちろんZoeであるが、私たちはYHWHの三位格(The Three Persons)とはもちろん異なるが(親と子の人格が異なるのと同じこと)、同じ成分と性質を有するエロヒム、つまり神属(族)である。カギは何か。「キリストにあって」だ。私たちのアイデンティティーと経験はすべてGodhead(神格)の全充満を宿す方との一体化による(Rom 6:5)。

このロマ書の「一体とされる」の原義は”sumphutos”、語源は”soon(結合)”+”phuo(育つ)”であり、KJVでは”implant together”と訳される。こうしてキリストと結合されて、キリストの内にインプラントされるとき、私たちもまたGodheadすなわち父・子・聖霊によって満たされ、霊的に完全な身たけに達するのだ。

考えても見よ、いかにして神の完全な身たけに達することができよう。それはスーパーナチュラルなのだ! それは体と魂の五感によらず、シックスセンスである霊から神のエネルギーによって生み出されるフェイスによる。弟子たちは、神のわざを行うために何をすべきかと聞いたが、ジーザスはこう答えた―

神がつかわされた者を信じることこれが神のわざである。-John 6:29

フェイスは神のわざであると! まさにスーパーナチュラルであろう。ここの「わざ」の原語は”ergon”、energyの語源だ。神のエナジーがそれを生み出す。信じます、信じます、信じます、とお題目を唱えることは無意味。あるいは「使徒信条告白、我はナントカやカントカを信じず・・・」もナンセンスとは言わないが、所詮宗教のお題目に過ぎない。ジーザスは、フェイスはあなたの何かではなく、神のわざだと言われるのだから!

かくして私たちはキリストの内において父・子・聖霊の神格の交わりに与り、神性満たされる。

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。-1John 1:3

神の性質にあずからせていただくようになるためです。-2Pet 1:4

私たちの霊から生まれたフェイスは、五感のスーツである魂と体において実体化され、Godheadが私たちを通して現出するのだ。これが肉において現れる神であり、これが敬虔(eusebeus)の奥義だ(1Tim 3:16)。敬虔を日本語のマトリックスで考えてはならない。かくして私たちは神のエミュレーターとなる―

 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。-Eph 5:1

この「倣う」も日本語で考えると、顔を引き攣らせたいわゆるクルシチャンか偽善者を生み出す。それはサルがヒトの真似をするようなもの。いのちの次元が異なる。この原義は”mimētēs”、つまりエミュレートするの意味。前にも指摘したが、Windowsマシンのハードにおいて、Mac のiOSを走らせることができる。これをエミュレーションと言う。するとハードはWindowsマシンであるが、その表現・機能・能力・資質・属性などのスペックはまさにMacなのだ。お分かりだろうか? 私たちの肉体と魂は人間だ。が、神のDNAを宿す霊は神のスペックを有している。それはGodheadによって満たされており、キリストの身の丈に至るのだ(Eph 4:13)。そもそも神の新創造である新しいひとりの人、エクレシアはキリストの充満そのもの(Eph 1:23)2)ここを「満たしているところ/場所」と訳すのは誤訳。「ある場があってそこに神の霊が満ちる」という聖霊派のイメージは誤り。エクレシアとはその方の充満(プレローマ)そのもの。岩波訳ではこれはキリストのことであるとしている。すなわちエクレシアとはキリストの充満である。私はこれをたい焼きで説明する。エクレシアとは餡子を入れる皮ではなく、餡子の充満そのもの。つまり餡子である。つまりエクレシアとはキリストである。

こうしてわれわれの体と魂という、いわばハードウェア(五感のスーツ)に神の霊、しかもGodhead(三神格)がOSとしてインストールされて、私たちがGodheadに満ちるとき、私たちを通して神が現出する(☞神をエミュレートする-God-OS)。WOW!!! これが、われわれはエロヒムである、という意味である。

ある種の人々が言うように、人性と神性が混ぜ合わされて(mingling)神化されるのではないから注意してほしい。あるいはニューエイジのように十字架の死と復活を経ずして、もともと神(god)であるというのでもない。われわれの本質はすべてキリストとのsumphutosによるのだ! キリストの属性・経験・資質・能力・資産などはすべて私のもの。御子を得た者はすべてを得ている(Rom  8:32)。私たちはいのちと敬虔にかかわるものはすべて得ている(2Pet 1:3)!  現在のもの、未来のもの、全世界は私たちのものである(1Cor 3:22)!

聖書をマジ受けしたら、これはヤバいのだ! 哲学やその影響下で組織されたキリスト教神学などに騙されてはならない。パウロはこう警告している―

だれもあなたがたを、彼のいわゆる哲学<主知主義>という内容のない欺き事<むだな空想、全くのたわごと>によって、戦利品として運び去る<あなたがた自身を捕虜とする>ことのないようにしなさい。〔それは〕人間の言い伝え<〔霊的な世界よりはむしろ〕物質的な世界についての人間のいろいろな観念>に従うものであって、宇宙についての初歩的な<基本だけの>教えに従い、キリスト<メシア>〔の教え〕を無視する粗雑な教えに過ぎないものです。-Col 2:8(詳訳聖書)

要するにニッポンキリスト教にありがちなオツムの空転現象に陥るな、ということである。繰り返すが聖書は生命現象の書、あるいは霊的いのちの取り扱いマニュアルである。神は十字架以前には存在していなかったまったく新しい種を生み出されたのだ。

霊のことは霊によって理解する!

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

References   [ + ]

1. ここを神から生まれた「者」とか、「その人」と訳されているが、誤訳である。原語は”pas”、つまり「すべて」である。それはである(☞神の新創造:神の霊的遺伝子工学)。
2. ここを「満たしているところ/場所」と訳すのは誤訳。「ある場があってそこに神の霊が満ちる」という聖霊派のイメージは誤り。エクレシアとはその方の充満(プレローマ)そのもの。岩波訳ではこれはキリストのことであるとしている。すなわちエクレシアとはキリストの充満である。私はこれをたい焼きで説明する。エクレシアとは餡子を入れる皮ではなく、餡子の充満そのもの。つまり餡子である。つまりエクレシアとはキリストである。

 

Leave a Reply

avatar
  Subscribe  
Notify of
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村