今回のメッセでテトス2章14節について触れた。邦語訳ではこうある(新共同訳)-

キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。-Titus 2:14

きわめて平板かつ凡庸な訳である。岩波訳では―

この方は、私たちのために御自身を引き渡した〔が、それは〕私たちを全き無法状態から贖い出し、立派な行いに熱心な御自身に属す民としてきよめるために〔だった〕。

KJVではこうだ―

Who gave himself for us, that he might redeem us from all iniquity, and purify unto himself a peculiar people, zealous of good works.

要するに主へと聖別された特異な人々。このゴチックの単語はStrongによると―

periousios
per-ee-oo’-see-os
From the present participle feminine of a compound of G4012 and G1510; being beyond usual, that is, special (one’s own): – peculiar.

普通を超えていること。そこでこの二つの単語を見てみると―

G4012:peri
per-ee’
From the base of G4008; properly through (all over), that is, around; figuratively with respect to; used in various applications, of place, cause or time (with the genitive case denoting the subject or occasion or superlative point; with the accusative case the locality, circuit, matter, circumstance or general period): – (there-) about, above, against, at, on behalf of, X and his company, which concern, (as) concerning, for, X how it will go with, ([there-, where-]) of, on, over, pertaining (to), for sake, X (e-) state, (as) touching, [where-] by (in), with. In compounds it retains substantially the same meaning of circuit (around), excess (beyond), or completeness (through).

G1510:eimi
i-mee’
First person singular present indicative; a prolonged form of a primary and defective verb; I exist (used only when emphatic): – am, have been, X it is I, was.

エイミをとおして、あるいはエイミの領域においてといった意味になるだろう。エイミとはAMだ。そこでMirror Bibleでは大胆にこう訳している―

He gave himself as sacrifice in 1exchange for our freedom. We are 1redeemed from every obligation and accusation under the law and declared absolutely innocent. He defines who we are! 2Our brand name is “i am.” We are exclusively his. We are a 3passionate people; we excel in doing everything we do beautifully. (…2periousis, comes from peri, for sphere, circuit, locality, pertaining to, and eimi, “i am;”…)

下線部を訳しておくと、「彼はわれわれが何者であるかを定義される! われわれのブランド名は”i am”である」。Mirror Bibleとあるとおり、キリストは神(YHWH=I-AM)の完全なるイコン(反映)であり、われわれはキリストのイコン(反映)である。ゆえにわれわれはカギカッコ付きの小文字のi-amであると言うわけだ。私たちはI-AMの領域において、あるいはI-AMに参与することによってそのアイデンティティーを定義される。

この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。-2Pet 1:4

私たちは神の本性つまり神性に参与するものである!

この霊的事実はすでに成し遂げられている真理でありサブスタンスである。それをわが経験にする(実体化)のはフェイスによる。前に恵みとフェイスは相伴って働くことを語った。恵みの領域においてフェイスは自由に働く。例えば、どんなに自分の髪を引っ張って、「フェイスによって空を飛べ~」と命じても飛ばない。これは恵みの領域と関係がないから。ペテロは言っている、いのちと敬虔に関わることはすべて与えられていると(2Pet 1:3)。

キリストのうちにいのちがあり、恵み真理(実体)が満ちていた(John 1:4;14)。私たちは彼から恵みに次ぐ、恵みを受けたとあるとおり(John 1:16)、恵みはいのちの領域において、いのちの御霊の法則に従って働く(Rom 8:2)。

しるしと不思議も恵みの言葉を証しするために主がなされる(Acts 14:3)。この意味でいわゆる一部の聖霊派のようにしるしと不思議だけを切り離して求めることはあまり意味がないのだ。それは人の目に訴えるだけの単なるパフォーマンス。フェイスと恵み恵みとフェイス恵みの領域が拡大されるならば、フェイスの領域も拡大する。逆もまた真なり。

フェイスはサブスタンス(Heb 11:1)、その霊的サブスタンスの領域をどれだけ委ねていただけるか、これは私たちの側の条件による。小さなことに忠実な者は大きなことを任せていただける(Luke 19:17)。あるいは世の不正の富を忠実に管理するならば、霊的な真の富を管理させていただける(Luke 16:11)。自分に任されている領域を知ること。これは恵みによって計り与えられたフェイスの度量を超えないことでもある。

わたしは、わたしに与えられた恵みをとおして、あなたがたの間のそれぞれに言う。正当な限度を超えた高い思いをいだくことなく、むしろ、神が各自に分与したフェイスの度量の程度により、健全に思いを用いるべきである。-Rom 12:3(私訳)

ここの「健全に」とある単語は2テモテ1章7節(2Tim 1:7)の「健全な思いの霊」と同じ語源をもつ。この単語は邦訳ではしばしば「慎んで」、「慎みの霊」、あるいは「自制の霊」などと訳されるが、「健全な思い」が適切。カギはここでもマインドの使い方。

しばしば勝手な思い込み、つまり勝手なマインドの使い方をフェイスと勘違いするむきがある。これが個人預言とかの形となり、実質的には聖書が禁じる口寄せと同じ様相を呈する。シーザーが喝破したように、人は聞きたいことを聞き、見たいことを見る。それが聞けるまで、あるいは見ることができるまで、追及する。かくして占いやタロットカードやオイジャボードなどに人気が集まるのだ。

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。-Prov 10:22

フェイスは何の努力も要らない。神は人の汗を嫌う。

頭には亜麻布のターバンをかぶり、腰には亜麻布の短いズボンをはかねばならない。汗が出るようなものを着てはならない。-Eze 44:18

神の祝福、God’s favorに生きるならば、恵みの領域が広げられ、するとフェイスの領域が拡大し、何の苦労もなく、私たちは富む者とされる。これはゴッド・マトリックスである。それは魂の健全性と密接に関係しているのだ。

愛する者よ、あなたの魂が繁栄しているように、あなたがすべての面で繁栄し、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2

病は気から、精神が病を生み出す。特にマインドの状態がカギ。健全な精神に健全な肉体が伴う(☞人間の聖書的啓示と現代精神科学)。マインドをいかに管理するか、ここに霊的経験のすべてのカギがあるのだ。ゆえに―

そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)

このとき

あなたによって心は広くされ/わたしは戒めに従う道を走ります。-Ps 119:32

内側に広い領域が広がるのだ。まことに神の国は私たちのうちにあることを経験する幸いに与ることができる。かくしてパウロはこう証しする―

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。-2Cor 4:6-9

仮に五感の領域において居場所を失うことがあったとしても、私たちの生きる領域はI-AMであるからだ。私たちはI-AMにおいて定義されたI-AMのミラー(コピー)としての”i-am”である!

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