iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。-1Cor 15:51-52
このラッパについては様々な解釈がある。
前艱難(7年)携挙説ではこの聖句のラッパを最後のラッパとし、この「上って来い」をもって携挙とする。
その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」-Rev 4:1
また、ある人々はロシュ・ハシャナ(第七の月の第一日、西暦で9月頃)の角笛のラッパであるとする。根拠は-
イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。-Lev 23:24
この数年、ロシュ・ハシャナに携挙があると騒いだ人々がけっこういるのだ。
極私的には啓示録にある七つラッパの七番目と解釈してきた(☞終末の予言について)。が、どうも再考を要するかもしれない。言語的には「最後のラッパ」とは「終末のラッパ」の意味であり、「シーケンシャルな最後」ではないのだ。
結論から言うと、共同体を招集したり旅立ちなどの際に吹かれるふたつの銀のラッパと、次の記事では指摘する。
銀のラッパを二本作りなさい。それは打ち出し作りとし、共同体を呼び集めたり、宿営を旅立たせるために用いなさい。二つとも吹くときには、共同体全体があなたのもとに、臨在の幕屋の入り口に集まる。一つだけを吹くときには、イスラエルの部族の長である指導者があなたのもとに集まる。-Num 10:2-4
詳細はこの記事を参照してほしい。言えることは携挙はミステリーなのだ。ゆえに軽々にタイム・セッティングなどをすべきものではない。ちなみに英国のKingdom Faithではエスカトロジー(終末論)はほとんど触れない。今・ここで、フェイスにより生きることにフォーカスするからだ。
最近の、特にチャック・スミス系の前艱難携挙説の人々がケイキョ・ケイキョと煽っている風潮には警鐘を鳴らしておく。これで携挙待ち疲れ症候群に陥る人々が少なくない。われわれは携挙を逃避的に待ち望むべきではない。神の委託は「地を治めよ」だから。天のリアリティーを地にならしめること。このことにフォーカスせよ!

物理的サブスタンスである量子は観測により実体化され、霊的サブスタンスはフェイスにより実体化される。フェイスとは当選クジだ。それを得れば、あとはワクワクしながら時空間の中でキャッシュに引き換えるだけ✨

物質とマインドの相互作用。量子のレベルでは人間のマインドがその状態に影響を与える。究極のマインドが物質界を生み出したのだ(Heb 1:3;11:3)。
フェイスとは神のリアリティーに生きること。いわゆるキリスト教正統神学や儀式や伝統に生きるのではない! 今・ここで、神のマインドを受信し、霊の中にフォティーゾされ、語り出すときそれは現像焼き付け(実体化)される。このダイナミクスに生きること!

●MSGタイトル:クオンタム・フェイス2
●聖書個所: John 3:13;17:24;Eph 5:30;Rev 1:17;Eze 44:4;Luke 24:45 etc
●2018年9月2日(日)のセレブはキャンプのためありません
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
●Web:KingdomFellowship ®
●YouTube:Dr.Luke’s Kingdom Fellowship Channel
●ApplePodcast:Kingdom Fellowship Celebration (←スマホでこのアイコンをタッチするとPodcastアプリで再生されます)
●Podcast Files:Celebration Live List (←このアイコンをiTunesにドラッグすると登録されます)
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電子書籍化決定
イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
●楽天にて:最初はとっつきにくかったです。というのは、カタカナ日本語多すぎます!でも、彼のyoutube聞き始めて、とってもおもしろくなってきたので、とうとう読み始めました☆内容は本当にアーメン!(まことにその通り)です☆すばらしいね☆Youtubeと一緒にみるのがおすすめです。

新エルレムについてはこうある(☞聖書が究極的に語ることとは<旧新約聖書の鳥瞰図>)-
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。-Rev 21:1-2;16;22-23
新エルサレムとはエクレシアの完成した姿である[1] … Continue reading。それは至聖所と同じ立方体。幕屋では1辺が10キュビット、ソロモン神殿は30キュビット、そして現在はエクレシアつまりわれわれの霊が至聖所であり、ここまではまだ隠されている。つまりうちにいます神の奥義なるキリストである(Col 2:2)。が、新エルサレムは一辺が12,000スタジオン(約2,000キロ)に拡大し、しかもそれは神の臨在そのもので輝いており、もはや隠されていない[2] … Continue reading。この流れを私は臨在の奥義と呼んでいる[3]聖書には一貫した奥義が四つある:結婚の奥義、臨在の奥義、受肉の奥義、敬虔の奥義である。。
tomi 2018/08/25(土)11:40
日本は「ニュー・エルサレム」である
1.
イエスの誕生よりちょうど2000年目の1996年、ミレニアムの活動は開始した。
明治天皇の孫小林隆俊牧師の講演会が寄居で開かれ、明治天皇の言葉が紹介された。
明治天皇が、娘である小林師の母仁(しのぶ)様に「お前に男の子が生まれたら、牧師にしなさい」と言ったと伝えられた。
この年の1月に市ヶ谷のルーテル会館で開かれたメシアニック・ジューの集会にコニー・ハーという中国系スイス人が現れた。
彼女は、ある有名なユダヤ人クリスチャン教師の弟子であり、この教師の言葉を伝えてくれた。それは「日本は、ニュー・エルサレムである」である。
この言葉の謎は最近解けた。
イエスが言われた「イスラエルの再興」は、ユダヤ人クリスチャンたちの集団において成就し、そのユダヤ人クリスチャンの集団は、日本に移住したと。
ロスチャイルドが言うように、イスラエルの再興が1948年のイスラエル国の建国において成就したのであれば、「イエスは律法と預言者(旧約聖書)を成就するために来た」という御言葉と矛盾する。
旧約聖書は、紀元70年までに成就しなければならない。成就しなければ、イエスは失敗したと言わなければならなくなる。
だから、イスラエルの再興は紀元70年までに成就しているはずである。
エルサレムがローマ軍によって包囲され、神殿崩壊し、ユダヤ人の大虐殺が起きたときに、クリスチャンたちだけは、その前に城外に逃げて無事であった。
彼らはペラという東の町に留まり、そこから東に向かったという。
東大名誉教授江上波夫氏によると「原始キリスト教徒が紀元2世紀に来日した」らしい。
紀元2世紀の原始キリスト教徒とは、すなわち、紀元70年のイスラエル滅亡を逃れた「羊系ユダヤ人」「初代教会の人々」である。
彼らは、再興のイスラエルであった。
再興のイスラエルが、日本に移住したということは、日本は再興のイスラエルだということになる。
日本は「ニュー・エルサレム」なのである。
2.
イエスを失敗者と描き、新しいメシアの来臨(または再臨)を待つという考えは、シオニストのそれである。
シオニストは、紀元1世紀にメシアは来臨しなかったと説く。
ナザレのイエスは、メシアではないと。
そして、別の人物が未来においてメシアとして来臨すると。
ロスチャイルドは、その下準備として、中央銀行を作り、国連を作り、世界中の国を乗っ取り、差別反対運動を広めて「世界を一つに」しようと努力してきた。
ロスチャイルドの願いは、これから建設する第3神殿からそのメシアが世界を支配することにある。
この計画の背後には、世界を強奪しようとするルシファーの霊がある。
真のメシアであるイエス・キリストは、この計画を破壊される。

キリスト教はしょせん五感の領域の事象に過ぎない。この中でニッポンキリスト教、カンコクキリスト教、アメリカキリスト教・・・なる現象が生じている。これは単なる宗教だ。そのマトリックスの中でいわゆるリバイバルを求め、タテノリガチャガチャの種々のイベントを企画するが、主ご自身がどこかに行っている[1] … Continue reading。まことにラオデキアの有様が展開している(☞教会歴史について)。
さて、ここではiPAIの覚醒を訴えている(☞iPAIの覚醒)。すなわち、アイデンティティー、ポジション、アビリティー、インヘリタンスだ。自分が何者であり、どこにおり、何をなし得て、何を得ているか。これが地上におけるわれわれのあり方を定義する。この御言葉は実に不思議。
And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. –John 3:13
これを訳すると[2]邦語訳では「天にいる」がカットされている。
誰も天に昇った者はいない。天から下ってきた者、天にいる人の子以外には。
はあ? 天から下ってきて、しかも天にいる、しかも人の子が? 一方でエペソにはこうある:
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6
はあ? 私たちは地上にいる者だが、天の王座にキリストと共に座している? 主ご自身が
わたしが世のものではないようにあなたがたも世のものではない。-John 17:14
ここの「ように」はjust sameにだ。キリストのうちに置かれたわれわれはその死と復活に共有し、さらにキリストと運命を共有している。これを霊的エンタングルメントという[3]今回の英国のFaith CampにてColin … Continue reading。さらにパウロはこうも言っている:
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、人として歩んでいる[4]邦語訳では「単なる人」とされているが、「単なる」はない。、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3
はあ? 「人として歩んでいるということになる」とは、私たちの本来のアイデンティティーは人ではないということ? そう、私たちは世の人と同じ種ではなく、キリストにある新種(ニュー・スピーシーズ)、新創造(ニュー・クリエイション)、すなわち新人類(ネオ・ホモサピエンス)なのだ。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新創造(KJV:a new creature)なのです。-2Cor 5:17
これらはたとえ話ではない。そのとおりに受け止めるのだ。われわれは天に座しかつ地にもいる。つまり天と地の接点にある新しい創造物なのだ。人の子であるイエスがそうであったように(John 1:58)。神の国(ザ・キングダム)は、今・ここに現存する! イエス様を信じれば死んだら天国に行けるといった幼稚園レベルを卒業せよ。神の国はわれわれの内にある。神の国は領域・主権・パワーを有する。そのサブスタンスをわれわれを通して五感の領域に現出させること-これが地上に置かれたエクレシアの任務なのだ[5]この意味でエクレシアは地上において神の統治を執行する出先機関あるいは派出所と言えるのだ。。繰り返すが聖書はマジでとらえるとやばいのだ。
References[+]

スルガ銀行で不正融資とか。が、融資はそもそも幻想。その仕訳は<貸付金/現金>ではなく、<貸付金/預金>だ。100万の現金があれば準備率の逆数倍まで貸し出せる。10%なら1,000万だ。それは書類上の数字に過ぎない。大衆はそのメカニズムを知らないから借金する、すると世の中にマネーが回る。
ちなみに現在の日銀券発行残高は100兆程度(☞日銀財務諸表)。なのに個人金融資産は1,500兆。これは幻想で膨らんだもの。それは元々ナイ! 日銀は国債をGDPを超える規模で引き受けて当座預金にマネーを流し、マイナス金利にしても、マネーが回らない。2%のインフレが起きないのだ。それは大衆の心理が冷えているし、大企業は内部留保(タンス預金)してるから。経済は心理学、大衆の心を温める必要があるが、そもそもの希望が見えない。
一方の借り手は汗水流して現金を作って返す。利息分は幻想の数字に対してかけられる。これを誰かが負担するのだ。ゆえに10人の借り手がいたら、全員は返済できない。誰かがポシャってその分が他の金利負担へと回る。
かくして聖書が語るように、借り手は貸し手の奴隷となる(Prov 22:7)。本質的に銀行は合法的詐欺なのだ。・・・と、かく言うぼくも知らなかったから7.5%の金利にかかわらず借金したのだが(若気のいたり)。信用創造と2%インフレの必要性についてはこちらを-

信仰は神のレーマを聞くこと(Rom 10:17)、神のレーマには不可能はない(原語、Luke 1:37)。このレーマは一回性のものだ。聖書に深く精通し、霊的経験が豊富であることも時に罠になる。一回性のレーマを聞き逃す、あるいは聞けない、あるいは聞いても従わないとすべてがアウト。あえて言えば、フェイスとは一回性の美学だ。
その例がモーセだった。神と顔と顔を合わせて会話する彼が、「岩に命じよ」という神の言葉を聞きそびれたか、聞いても従わなかったのか、あるいは命じて水が出ると信じなかったのか[1]頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。、とにかく彼は岩を打ってしまったのだ(Num 20:7-11)。それでも水はほとばしり出たが、その不従順のゆえ、モーセは良き地には入れなかった。
理由は、以前の岩を打つと水が出た奇跡の経験が彼の思い(mind)にコンフォーム(形成)されていたからだ。彼は思いを新たにすることに失敗した。われわれの魂(知性・感情・意志)には慣性がある。ある一定の方向に向かうと方向転換が難しくなるのだ[2] … Continue reading。そのコンフォームされたフレームからはみ出る事象などには必ず抵抗感を覚える。現代でも死人が蘇る!? そんなのは古代の夢物語だろうとか。
マタイ10章(Matt 10:7-8)の命令はオリジナルな十二弟子限定であるとする人々がいる。が、マタイ28章にはこうあるのだ。
わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。-Matt 28:18-20
あるいはイエスのなした奇跡はすべて何らかの霊的真理を教えるための喩えであるとか・・・。これがニンゲンのマインド・オヴァー・ゴッドだ。
肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7
自己弁護や、聖書解釈、霊的意味付けなどで主イエスの業をニンゲンのマインドに収めることは大きな損失。聖書の言葉はそのまま受け取るに値するものだから。
この言葉(ロゴス)は真実であり、そのまま受け入れるに値します。-1Tim 4:9
聖書はすべて、神の霊感によるもの・・・-2Tim 3:16
神の霊感とは”theopneustos=thoes(神)+pneo(息吹き)”。そして神は今もレーマを語られる。レーマを聞くと、とにかく分かる。I know that I know ! しかもそれはしばしば私のマインドの枠を超え、逸脱し、あり得ないのだ。霊と魂の分離が起こる。この状態は受胎告知を受けたマリアのようにけっこう自分にとっては困惑あるいは不安を生む。なぜか? これまでのマインドのパラダイムから外れているから。
かくしてイエスが行かれたところ、語られるところ、御業をなされるところには、必ず大きな困惑と混乱と意見の対立が生じるのだ。エクレシアが真に神の国の出先機関として機能し出したら、これは世をこのように引っ掻き回すだろう。が、それが終末の福音のあり方である。あなたの街のお気軽な教会、いつでもいらしてください的な世に媚びる姿勢を悔い改めよ! 神のなされることはすべて世に対するチャレンジである!

TODAY’S CELEBRATION Aug 19, 2018:霊的ヒポコグニッションからの解放
●MSGタイトル:霊的ヒポコグニッションからの解放 ●聖書個所 …
●MSGタイトル:霊的ヒポコグニッションからの解放
●聖書個所: Gen 2:19;1Cor 2:13;Col 3:16;Rom 4:17;Acts 18:9-10 etc
●2018年8月26日(日)のセレブ:
・場所:エスカル会館2F会議室
・時間:1300-1700
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●Podcast Files:Celebration Live List (←このアイコンをiTunesにドラッグすると登録されます)
●セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
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イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。
●面白い口コミがありました:聖書は既読ですが、モーゼが杖をついたら海が二つに割れたり、イエスが一つのパンで何百人の人を養ったりと、神話的な話として読んでいました。この本を読んでからは、神話や伝説ではなく、リアリティとして感じられるようになりました。
●Amazonにて:Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
●メールにて:一気に読んだ。読みやすくて、時間を忘れて読んで、まったく抵抗なく、すぅ~~~~っと入ってくる内容だ。
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と教える人々がいるとのこと。ある集会の証の本に、「病気の癒しを祈ってはならない、悪霊が働くから」と書いてあるのを見て目が点になったことがある。この人たちは異言も悪霊によるとしているらしい・・・・。要するに病気の中で自分の十字架を負って主の清めの御業を受けることが大切ということのようだ。彼ら的にはこれがいわゆる聖化の過程なのだ[1]それでは、神がその目的を成就するために送られた病を医学によって治療することは、見事に神の意志に反することになるではないか?!。うーっむ。
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38
イエスは御父を完全に現わされた。すなわちイエスを見れば御父の心が分かる。悪魔に苦しめられて人たちをすべていやされた! これは悪霊に憑かれた人のこと? ここの「いやされた」は”iaomai”、Strongによれば”heal, make whole”とある。健やかにされることだ。では、御父の心とは? それともイエスはあるときに方針を変えられたのだろうか? ヘブル書には、昨日も、今日も、永遠に変わらない、とある。
わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならばその言葉は決して取り消されない。-Isa 45:23
いじめっ子にいじめられて人格が錬られることを恵みとすることはあり得ないように[2]われわれは栄光の中において主と同じ姿に変えられていくのだ(2Cor 3:18)。、私たちは不当ないじめっ子には立ち向かうべきなのだ。
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。-James 4:7
いじめられっ子メンタリティーからマインドのトランスフォーメーションにより解放される必要があるのだ。これは病気だけではない。人間関係の束縛、貧困、逆に富の誇り、世のプライドなども同じ。あらゆる妨げから自由にされて神の国の豊かさを享受するためだ。
さて、ここで問題となるのは、罪と病の関係だ。罪の結果である死はひとりの人から全人類に入り込んだ(Rom 5:12)[3]罪は世に入り、死が全人類に入った。神の目にとっては死に支配される人類は自ずと罪を犯すのだ。。その結果として病も蔓延した。あなたは次の質問にどう答えるであろう:主はわれわれが罪のうちにとどまることを望まれるであろうか? アブソリュートリー・ノーだ。では、主はわれわれが罪の実である病にとどまることを望まれるであろうか? ここでそれぞれのフェイスが問われるのだ。
罪と病の問題はきわめてセンシティブな部分がある。イエスは、ある盲人に対しては、本人の罪でも親の罪のためでもなく、神の栄光が現れるためと言われた。ベテスダの池の病人に対しては、これ以上罪を犯さないように、悪いことが起きないように、と言われた。しばしば人は罪を楽しみつつその中にとどまることを願う。同様に病にあることがある種のコンフォートゾーンになることがあるのだ[4] … Continue reading。
原則として言えることは、死はひとりの人の罪によってもたらされた(Rom 5:12)。すなわち病気もアダムの罪の結果だ。イエスは十字架で人類の罪と病を負われ、否、罪とされ(2Cor 5:21)、病を知られた(Isa 53:3)。そしてその打ち傷により、私たちの罪は赦され、病は癒された(Isa 53:5)。私たちはアダムにあって生まれ、生きてきたが、ある時、イエスと共に十字架でアダムにある自分が死に、キリストにある自分が復活したと知った。さらに私たちは新しい創造とされた。
問題は、この身体がまだ旧創造に属していること。その中には罪(Sin)が住んでいること(Rom 7:17)。ゆえにこの身体は病気を抱えるし、罪も犯す。私たちにとっては、あなたの罪はすべて赦されていると宣言することは容易だが、あなたの病気はすべて癒されていると宣言することは困難なのだ。何故? 後者は目に明確に見えることだから。
癒しのミニストリーに携わる人々、例えばBill Johnsonが受けている非難に[5]彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ(笑)、彼自身メガネを必要としているし、息子も補聴器を必要とする難聴ではないか、とするものがある。彼もそれは真実に認めている。なぜ、他人は癒せるのに、自分と息子は癒せないのか? 回答は、不明、だ。私たちには分からない。英国のKingdom Faithでも、わが師であるJohn Mckayはガンで死亡した。Colin Urquhartは胃ガンになったが、15年経た今も健在だ。なぜ?・・・分からない[6]ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen … Continue reading。
目に見える現象としては、癒されない人もいるし、綺麗に癒される人もいる。しかし、極私的には、病気の人に対しては手をおいて祈ることを淡々と続けたいと願っている。それは機会がよくても悪くても御言葉を語り続けることと同じ。御言葉を聴いた人がすべて救われるわけでもないが、聖書には淡々と種まきをせよ、とあるからだ。私たちには誰が癒される/癒されないは不明であるし、誰が救われるか/救われないかも不明だ。主は多分言われていると思う:主権者はわたしであるから、あなたが知るべきことではないと[7] … Continue reading。ただ御心はすべての人が救われ、すべての人が癒されることであることは否定できない[8] … Continue reading。
References[+]
↑1 | それでは、神がその目的を成就するために送られた病を医学によって治療することは、見事に神の意志に反することになるではないか?! |
---|---|
↑2 | われわれは栄光の中において主と同じ姿に変えられていくのだ(2Cor 3:18)。 |
↑3 | 罪は世に入り、死が全人類に入った。神の目にとっては死に支配される人類は自ずと罪を犯すのだ。 |
↑4 | これを疾病利得と言う。誤解や反論を恐れずに言うが、癒されない人はしばしば深層心理において癒されたくないのだ。罪にとどまる人も同様に、それを指摘されることを避ける。なぜならその罪の享楽を失いたくないから。人はかように自己矛盾した存在である。 |
↑5 | 彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ(笑) |
↑6 | ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen 28:16)でヤコブは、神の家ベテル、天の門に神がいるとは気がつかなかったとある。神は常に共におられるのに、私たちは気がつかない、当然神の声(レーマ)を聴くことができない。あらゆる場面におられる神(I-AM)に気が付くかどうか、これは大きな差を生み出す。フェイスは自力で絞り出すものではない。神の声レーマを聞くなのだ。 |
↑7 | 私は医学の介入を否定するものではないので、注意されたい。人間の裁量権に任されている部分は相当にあると考えている。神学用語を弄すれば、「一般恩恵」として。 |
↑8 | ここでカルバン神学に言う、選びの問題がクローズアップする。救われた人は選ばれていた人。では選ばれていない人はどうなるの? と人は質問する。が、それは神の主権に属することである。神はある器を尊い目的に、別の器を卑しい目的にのために作られるのだから。 |

先回のメッセでも語ったが、生体は光を放つ。この映像は受精の瞬間に放たれる光✨

人は言葉の動物である。人は内的な言葉によって認識や言動が影響を受ける。例えばいじめっ子はしばしば内的言葉の貧困が原因であり、内的言葉を豊かにし、自己表現力を増してあげると、いじめ行為がなくなる。自閉症の人は外的世界を内的意味空間に位置づけることができず、人の表情や場の雰囲気が読めない。また自身の内的感情や欲求を適切に表現することができないために、キレてしまうことが多い。
さて、ここに面白い研究結果がある。
Hypocognitionとは-
「Hypocognition」は人類学者のロバート・レビーによって作られた「オブジェクトに対する言語あるいは認知表現の欠如」を示す言葉です。
この記事にもある通り、感情の適切な表現が欠如すると自殺率が高くなることもあり得るし、病気に対する適切な診断や処置をすることもできなくなる。すでに述べている通り、アダムは動物に名前を付けた。これにより個々の動物が定義され、その存在が確立したのである。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。-Gen2:19
ここで「名をつける」とある単語は”qara”=「呼ぶ」とか「宣告する」の意味。「その名となる」とある単語は”shem”=「命名する」から、さらに「誉れ、権威、性質を受ける」の意味がある(Strong)。アダムはこうして神の創造物にひとつづつ誉れ、権威、性質を定義したのだ。しかも、YHWHエロヒムはそれをご覧になっていた。つまりアダムにすべてを委ねていたのだ。
かくしてアダムは「地を治める」ために、まず外界の存在を定義づけた。これにより外界を制御できるようになる。例えば、上の記事にある1/3のアメリカ人は2型糖尿病の概念がない。そこでその症状を定義づけることができず、対処もできないままに放置することになる。これで2型糖尿病を「治める」ことができないのだ。タヒチの人々は「悲しみ」に対応する単語を持たない。ゆえに、その感情を適切に処理することができず、自殺へと至ることになる。
以上の例はあくまでも五感の領域の事象に関わることであるが、霊的領域の事象に対しても同様である。自分の身体や環境に何かの事態が生じる。それが望ましくない場合、われわれはどう対応するであろうか? ある人は人生は自分の思い通りになるものではない、あるいは人生は不条理なものとして、その中に巻き込まれ、翻弄されるままになるであろう。未信者の場合はほとんどがこのようなものであろう。が、霊的な言葉と知識を有するクリスチャンは、それが霊的なアタックであることを見抜き、その原因である霊に対して権威を行使することにより、その事態を「治める」ことができる。ヨブ記を読めば、人生の不幸や悲惨がフェイスの穴から生じることが理解できるのだ。
人生は一寸先は闇ではない。敵のウソを拒絶せよ。われわれは光の子であり、常にYHWHエロヒムの光の中を歩んでいる。御言葉はわが足の灯である(Ps 119:105)。あらゆる呪いはすでに終わっており、今やキリスト・イエスにある者はYHWHエロヒムにより祝福されている!(Eph 1:3)また主と共に御座に座しており(Eph 2:6)、敵を踏みつける権威を得ている(Luke 10:19)。霊的諸勢力はすでに武装を解除されて、さらし者とされている(Col 2:15)。ゆえに私たちを害する者は何もない!(1John 5:18)
このようにキリストの言葉(ロゴス)をうちに豊かに住まわせれば(Col 3:16)、われわれはあらゆる状況においてそれに対処することが可能となる。イエスは男だけで五千人を二匹の魚と五つのパンで養うことができた。その際、イエスはうちにある父の言葉に従って対応したのである。嵐の中で翻弄される船の中でも寝ていた。そして弟子たちの叫びに応じて、嵐に命じると嵐は収まった。かくしてイエスはあらゆる状況において「地を治める」ことのデモンストレーションをされたのだ。
しかも、イエスを信じる者はイエスと同じわざをなし、さらにそれよりも大いなるわざをなすと言われる(John 14:12)。カギは何か。私たちはイエスから離れては何もなし得ない。が、信じる者にはすべてが可能である。フェイスは無きものを在るものとする。フェイスはキリストの言葉(レーマ)を聞くことである。一度、御声を聞けば、それは成る! 天地を造られた方の言葉を内側に豊かに住まわせること。われわれは霊的なHypocognitionであってはならない。御言葉はあらゆる状況に対応するパワーを有する。ゆえに
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。-2Cor 4:8-9
わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。・・・わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。-2Cor 6:3-10
仮にどう祈るべきかも分からない場合ですら、
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。-Rom 8:26
かくして私たちは地上におかれている現在において、フェイスにより地を治める者となる。人生の荒波や敵の攻撃や貧困や病において戸惑い、困惑し、何をどうべきかを見失うことがない! カギは内に住まうキリストの言葉。キリストの言葉を豊かに住まわせよ! それはあなたの魂にとって錨であり(Heb 6:19)、あなたの魂を救うのだ(James 1:21)。

イエスは日々十字架を負い、自分を捨て、魂のいのちを否めと言われた(Luke 9:23-24)。何度もここで書いているが、それは魂の機能である知性・感情・意志の活動を停止し、私の意識が消失することではない[1]こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。。それはナンセンス。しかし、こう勝手に解釈して、自分が死なない、死のうとするとますます生きてしまうと葛藤し、自作自演的にクルシチャン化する者がいる。真理は霊から独立して機能する魂を否めと言うことであり、私たちの魂はキリストに依存するとき、ますます栄えるのだ。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20
パウロは明確に、生きているのは私ではないとしつつ、肉において私が生きていると証ししている。キリストのフェイスに頼るとき、私(の自意識)も生きているのだ。この二つの「私」の間には十字架の死と復活がある。だからヨハネはこう祈っている:
愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2
ヨハネ書簡において、邦訳では「恵まれて」となっているが、ヘブル語は”euodoō(栄える)”だ。人類はいのちの木の実を取り損なった。その実体はキリストご自身。その方のフェイスによって生きるとき、
待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。・・・願望がかなえられれば魂は快い。-Prov 13:12;19
かなえられた願いはいのちの木、すなわち信仰の実の一要素である喜びを生む。イエスご自身がこう約束されている:
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-John 15:7-11
喜びは魂の感情の機能であり、霊的サブスタンスにタッチする時、天の喜びが私たちの霊に反映し、それは魂の感情に触れて、喜びとして体験することできる。いつも喜んでいなさい、は単なる標語や絵に描いた餅ではない。リアルである(1Thess 5:16)。ハレルヤ! キリストのフェイスに頼って生きる魂はますます栄え、神の国を表現するのだ。その霊に満たされた魂が語り出す言葉(レーマ)は、霊であり、いのちである(John 6:63)[2]私はこれを<ロゴス×フェイス=レーマ=霊=いのち(Zoe)>と定式化している。聞いたロゴスにフェイスを混ぜること(Heb 4:2)。。ゆえにパウロはこう勧めている:
そして思いの霊において新しくされなさい[3]邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。-Eph 4:23
はっ? 思い(mind)は魂の機能では? 確かにそうだが、ここの思いには霊が浸透しているのだ。これがトランスフォームされた思い(Rom 12:2)。私たちの魂、特に思いはもはや霊から独立して勝手に彷徨うことはない[4]思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。。それは霊と御言葉にしっかりと根付いている:
だから、あらゆる汚れやすべての悪から離れ去り、移植された御言葉(logos)を素直に受け入れなさい。それは、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21
魂が栄え、すべてにおいて健全であること。これはまず思いのトランスフォーメーションから始まる。思いが霊と真理に基づいているならば、感情は安定し、健やかかつ豊かであり[5] … Continue reading、意志もそれによって言動を決める。こうして私たちは神の国のポータル(門)として、地上に神の国を現出させるのだ。ゆえにハデスの門もエクレシアに打ち勝つことはできない(Matt 16:18)。ますます大胆にイエスの名によって求め、願いをかなえていただこうではないか!
さて、ここでカギになるのは霊と魂の切り分けである(Heb 4:12☞霊と魂の分離について)。多くのクリスチャンが混乱するのは霊と魂が切り分けられていないから。魂の声を主の声として信じてもそれは実現しない。霊に響き渡る声を聞く必要があるのだ。
例えば、年老いたアブラハムとサラは子供ができると聞かされたとき、共に笑った(Gen 17:17;18:12)。彼らの魂の思い(mind)はその告知を受け入れることができなかった。なぜ? 地的な常識あるいは知識に反するから。しかるに、へブル書にはこうある:
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。-Heb 11:11
ここでポイントは、神の言葉(レーマ)を聞くとき[6]ロゴスは真理を固定的かつ客観的に説明する言葉であり、レーマは即時的かつ主観的に語られることばである。、思いは必ずしもその内容を納得することはできないのだ。「はあっ?」という反応がほとんどであろう。それはアダム系の価値観の体系-マトリックス-をはるかに逸脱するからだ。が、フェイスはある。なぜなら、神が語ったから。神が「光よ、あれ」と語ると、光があったのだ。それは私たちが納得するとか、私たちが改めて信じるとかの問題ではない。この点、使徒行伝で、ペテロとヨハネが美しの門にいた足萎えを癒したとき、こう証している:
ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や清さ[7]この原語は”eusebeia”、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16☞神をエミュレートする)。で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。-Acts 3:12
つまり、その癒しは彼らの何かによるものではないというわけだ。フェイスは聞くことから、聞くことは神の言葉(レーマ)による(Rom 10:17)。この部分を、聞くことによりフェイスを「生み出す」と解する向きがあるが、これは意訳の結果だ。原語では
αρα η πιστις εξ ακοης η δε ακοη δια ρηματος θεου
「よって/その信仰/から/聞く/その/また/聞く/経由/レーマ/神の」となる。サラの場合も「聞く即フェイス」だったのだ。私があなたに「今日は暑いですね」と語る。それを聞くことそのものがフェイス。つまり「今日は暑い」というサブスタンスを得るのだ。このとき私たちの思いがどうのこうのは関係ない。神の声を一旦聞けば、それはどうあがいても否定しようがない。あとはそれに従うだけ。するとその実体(サブスタンス)が現出するのだ。
問題は思いがトランスフォームされていないと[8] … Continue reading、御言葉自体もスルーしてしまうし、神に聞く姿勢も起きない。さらに思いが聞いたことばをあえて拒絶するならば、もちろん従うこともない。ゆえに実を得ることはできない。あるいは思いが自分のことや何か特定のことでイッパイ・イッパイの場合、霊は抑圧され、聖霊の働く余地がない。感情も同じだ。そこで一度、魂が死ぬ必要がある[9] … Continue reading。
このとき、魂のマインドは透明にされ、御言葉の光はスッと通過する。あたかもカメラのレンズが透明であり、しかもシャッターが開いていれば、自然と光を受けるのと同じ。これをフォティーゾと呼ぶことはすでに述べている。するとその霊の光は私たちの霊に感光し、それを魂が思いにより言語化あるいは映像化し、語り出すあるいは行動に移すとき、それは五感の領域に実体化される。カギは魂がしゃしゃり出ないこと。魂はあくまでも霊に服することである(☞聖霊による魂と霊の分離オペ)。
References[+]
↑1 | こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。 |
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↑2 | 私はこれを<ロゴス×フェイス=レーマ=霊=いのち(Zoe)>と定式化している。聞いたロゴスにフェイスを混ぜること(Heb 4:2)。 |
↑3 | 邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。 |
↑4 | 思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。 |
↑5 | イエスが笑ったかとか議論する人々がいる。イエスは実に感情豊かだった。人前でもよく泣いた。しかめっ面とフェイスは反比例するのだ。あと、目が笑っていない牧師の笑顔とも、ね💦 |
↑6 | ロゴスは真理を固定的かつ客観的に説明する言葉であり、レーマは即時的かつ主観的に語られることばである。 |
↑7 | この原語は”eusebeia”、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16☞神をエミュレートする)。 |
↑8 | しばしばレーマを得てからその現出までにタイムラグがある場合が多い。この間に私たちの思いは揺れる。自分の聞いたことが勘違いだったのではとか、思い込みだったのかとか。あるいはある種の待ち時間が必要となるのだ。私たちの魂は待つことが苦手なのだ。 |
↑9 | 先に述べたように、魂の諸機能が機能停止することではない。凝り固まった魂のエネルギーが一度抜かれるとでもいうべき状態に入る事。これは「脱魂的エネルギー状態」とも言えるかもしれない。もちろん十字架の働きによる。 |

不思議なほどに日本を特別視する再建主義富井氏。CLIPしておこう。Dr.Heiserによれば、あくまでもYHWHエロヒムはカナンの地からご自身の国(=統治)といのちの増殖を行われる。それはもちろん聖書の啓示通りである。YHWHエロヒムは果たして選びの土地を変えてしまわれたのであろうか? 日本人であることそのものがキリスト教徒である?
tomi 2018/08/15(水) 07:48 真の栄光のイスラエルは日本なのである 日本のキリスト教徒は100万人を超えたことがないと言われるが、日本は紀元2世紀に初代教会の人々が来日して建てた国であるので、日本人であることそのものがキリスト教徒なのである。天照大神は、民のために死んで、蘇ったキリストである。これは神社本庁が認めている。大嘗祭では、皇太子がバプテスマ、聖餐式、復活式を行い、それを通じて天照大神の霊を受ける。つまり、クリスチャンになるという儀式である。天皇は、天照大神から日本の統治を委託される。聖書を読めば、日本の国体がまさに「契約の民の国」つまり「新イスラエル」であると理解できるだろう。 2. 「キリスト教は一神教だ」 これは知識人がよく陥る誤解。キリスト教は、三位一神教である。3人の神々が契約を結んで一人の法人として存在する。これが三位一体の神である。神において、多様性も究極であり、統一性も究極である。神道は、造化三神によって創造が行われたと説く。そして、キリスト教徒だった秦氏の神社の三柱鳥居が示すように、これらの三神は一つに結ばれている三位一体神である。 3. イエスの当時、イスラエルの民の夢は「ダビデやソロモンのころの統一王朝の栄光を回復すること」であった。彼らは、イエスがそのイスラエルの栄光を取り戻してくれるメシアと期待した。「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』」(使徒の働き1・6-7) イエスはイスラエルの再興そのものを否定されず、「時期を知ること」だけを否定された。イスラエルは再興されるはずである。それはいつか。ロスチャイルドは1948年だという。しかし、ニムロデの子孫を自称するロスチャイルドはヤハウェ信者ではなく、ルシファー信者である。つまり、今のイスラエル国はルシファーの王国なのである。われわれはこれを聖書が預言した栄光のイスラエルと誤解してはならない。 4. 真の栄光のイスラエルは日本なのである。なぜならば、ここで質問した弟子たち(ユダヤ系キリスト教徒)は、紀元1世紀のエルサレム神殿崩壊の後、パレスチナを捨てて、東に移動し、日本にやってきたからである。天皇家の紋章「獅子と一角獣」は、南北イスラエルの象徴である。ロスチャイルドも同じ紋章を使用しているが、偽物である。ロスチャイルドのイスラエルを中心とした世界政府が、皇室を滅ぼそうとしているのは、偽イスラエルによる真のイスラエルへの攻撃である。
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Without him, no me who I am now.
私たちが日本から初めて参加したFaith Camp 1993はこちらを。当時、日本人が来たと珍しがられてニュースレターにも書かれた。それほど日本は遠い国だったのだ。

十字架は全宇宙の歴史の転換点だ[1]もっと言えば、切断面と言える。。旧創造を担われたイエスは、十字架でその不条理をすべて引き受け、苦しみの中で死なれた。その苦しみはわれわれが知る由もない。神の独り子だけが与り得る苦しみである[2]よく言われる「キリストのお苦しみにあずかる」というもっともらしいセリフは偽りである。。
しかし、イエスは聖霊により復活した(Rom 8:11)。このとき私たちも復活した。この復活の領域は新創造の領域であり、あらゆる旧創造の不条理から解かれている領域である。イエスが地上におられたとき、あの地において限定的に現された神の国が全地球規模において現出する。神の国は私たちのうちに聖霊によって生きている。
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。-Rom 14:17
そこで病の癒しについても言えるが、自分をどなたと同一視するのかがポイント。自分の葛藤や苦しみや病や罪からの解放を求めて、苦しんでいる十字架の主と同一視するのか(=最初のアダムとの同一視)、勝利にあって復活され、天に座しているお方と同一視するのか(=第二の人との同一視)。真理は、私たちはすでにその方と共に天に座しているのだ!(Eph 2:7)
よく言われるキリスト教のセリフに「十字架に戻れ!」がある。これがけっこう曲者なのだ。しばしば、そこで苦しまれているキリスト、すなわち最初のアダムと同一視してしまう。実際は十字架は旧創造がすでに終わったことの保証であり、その後に復活があることを思いこさせる場なのだ。私たちは「自我に死のう」と務める必要はない。すでに死んでいる! ポイントは復活したキリスト、その方と同一視するとき、まことに神の国のいのちと力を味わうことができるのだ。サタンも手の出せない領域。罪の赦し、病の癒し、貧困からの解放、豊かな人生を堪能できる。
愛する者よ。あなたが、たましいが繁栄しているようにすべての点でも繁栄し、また健康であるように祈ります。-3John 1:2
もっともらしいキリスト教なる宗教のマトリックスに絡めとられないように! われわれはすでに死んで復活したニュー・クリーチャー。この世にはいるが、この世のものではなく、ジャスト・セイムにキリストと同じエイリアンである。☞十字架とは何でしょう?

ここでもエロヒムの概念がポイントになる。いわゆるキリスト教の神学などは人がねつ造したものに過ぎない。ヘブル語のマトリックスに入ること。カギは創世記6章にある!(☞神の新創造セミナーII)

今回の英国のキャンプでも語られたテーマ:ニュー・クリエイション。
最初のアダムは失敗した。そのため全地は呪われ、旧創造として虚無に服している(Rom 8:20)。しかし、神ご自身が受肉されたジーザスは最後のアダムとしてその死により旧創造を終わらせ、第二の人、新創造の初穂として復活された。私たち信じる者はその死と復活にあずかり、今やキリストを長兄とするYHWH家の一員にしてエロヒム属とされている。うちにYHWHエロヒムを宿し、その方がわれわれの肉を通して生き出て下さるのだ。これが敬虔(Eusebeia)の奥義(1Tim 3:16)。われわれはYHWHをエミュレートする(Eph 5:1)。
元々神[1] … Continue readingは人を内側も外側もご自身に似せて創造しようとされ、型にを持たせた。この時点で、人は神のような存在だった[2] … Continue reading。そして地を統治することを委託され、すべての生物に名をつける権威を与えられた。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。-Gen 1:26;2:19
この命名する行為は、実はそれぞれの生き物にとってのリアリティを創り出すことに他ならない。例えば、「ライオン」と命名された動物はコレコレの特徴があり、アレコレの行動をし、コウコウであると。これが私たちのマインドのうちに構築された「ライオン」のリアリティである。あるいは「ガン」。DNAが損傷され、異常なタンパク質が勝手に増殖し、生体を死に至らしめる。ステージ4ともなるとほとんど助からない、治療法は・・・云々。こうして私たちのマインドにとっての「ガン」というリアリティが構築され、いざガンと診断されると、このリアリティがマインドに展開され、その中に自分を閉じ込め、最悪死を覚悟する。つまりその名前がつけられたリアリティを信じて、「ライオンは怖い」、「ガンは致命的病だ」とマインドは受け入れてしまう。よって信じた通りになるのだ。
かくのごとく、名前を付ける行為は神から委ねられた権威であるが、これが善悪を知る木の実を食べた人類にとっては自縄自縛の結果を生むことになった。人は現象や事象に名前をつけて、フレームにはめ込まないと不安を抱くのだ。「○○主義」とか、「××派」とか・・・。こうしてマインドの中でリアリティを作り出し、それに基づいて意思決定をし、言動を決める。たとえそれが真実ではなかったとしても、その人にとってはあくまでもリアリティなのだ。
ところがイエスにとってのリアリティはわれわれのそれとは相当に異なっている。たとえば、男だけで五千人を五つのパンと二匹の魚で飽かせた事件。弟子たちはそんなパンと魚の数ではとても無理と焦った。が、イエスは悠々としていた。彼の信仰にとってはそれで十分だったのだ。あるいは嵐の中の船でも悠々と寝ていた。弟子たちは焦りまくったが、イエスにとっては一言で解決する事態に過ぎなかった。
イエスにとっての目に見えるリアリティはその信仰によっていくらでも変え得るものであった。彼はつねに霊的領域における真理を見ていたからだ。目に見えるものは目に見えないものが実体(フレーム)化されるものだからだ(Heb 11:3)。その目に見えない領域に働くのがフェイスだ(Heb 11:1)。かくしてイエスのマインドは常に親密なる父なる神との関係によって、その御父の能力とパワーが介入することを知っていた。かくして「地上に御心がなる」ことを実証したのだ(Rom 12:2)。ゆえにイエスを見た者は父を見た(John 14:9)。私たちの病気や問題を神がどう見ておられるかは、イエスの言動を見れば十分に理解できる[3] … Continue reading。
地上において神の国を現出させるためには、イエスの言動でわかるとおり、マインドのトランスフォーメーション、すなわちイエスのマインド(1Cor 2:16)がわれわれのマインドを占めることと;フェイスによって権威をもって語り出すことがポイントになる(2Cor 4:13)。語り出された言葉(レーマ)には神の国の力(デュナミス)があるのだ。アダムが喪失した権威と能力をイエスはその血によって贖い取られた。イエスの血の値段がどの程度のものか考えて欲しい(1Peter 1:19)。その血によって贖われた権威と能力がどれほどのものか!
私たちは新しい創造物として、十字架の前には存在しなかったまったく新しい種である(Gal 6:15)。ニュー・スピーシーズ。うちにキリストを死から蘇らせた聖霊、さらに父と子の内住を得ている存在(Rom 8:11;John 14:23)。YHWHエロヒムがうちに生きている存在。それはスーパーナチュラル! その内にいます神が語り出せば、ないものがあるようになる(Rom 4:17)。私たちが何かに名をつけることによりリアリティを作り出すことは、そのことの影(型)なのだ。
御心が天になるとおり、地にもなるように。この祈りはまさしく、アダムが喪失した統治を、今・ここで、現出させることに他ならない[4]ただし、再建主義との違いは前に指摘したので、繰り返さなさい。。キリストにある私たちはニュー・クリエーションであり、イエスの血の代価によって得られたその権威と能力を有している。だからパウロはコリントで肉的な騒乱にある兄弟姉妹に対して
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、
ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3
と叱責する。邦語訳では「単なる人として」のニュアンスであるが、原文にはそのような修飾はない。「人として歩んでいる」となっている。え?! ということは、本来人ではないことになる!? そう、私たちは新しい創造物、エロヒム属。イエスの血と脇腹の水により、御霊から生み出された、それまでは存在していなかった創造物。ホモサピエンスではなく、ネオ・ホモサピエンスである。今回のメッセでは光の国から来たウルトマンであるとなぞらえたが、そのとおりなのだ。ジーザスと同じにこの世のものではない。エイリアンである! その有する権威と能力はキリスト教が教えるようなものではない。死んだら天国に行けるといった幼稚園を卒業せよ! 今・ここで、自分のアイデンティティー・ポジション・アビリティー・インヘリタンスに覚醒せよ!(☞iPAIの覚醒)
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ・・・-Ps 8:5
YHWHエロヒムはミケランジェロの絵画にあるギャップを埋めて下さったのだ。
References[+]
↑1 | この神概念は聖書の概念とは微妙にずれていることはすでに何度も指摘している。言語はYHWHエロヒムである。エロヒムとは霊的生命体の総称。その最も高きエロヒムがYHWH、つまり父・子・聖霊にいます創造主なるお方である。 |
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↑2 | あとはいのちの木の実を得れば実質を得たのだが、サタンは人のこの事実に不足があるかのようにエバを誘惑し、先回りして善悪の木の実へと彼らを誘導した。またモーセはパロに対してとエロヒムとされている(Exo 7:1)。 |
↑3 | 病気や問題や貧困は私たちを清めるために神が与えしものと言ったキリスト教の考え方を捨てよ! 主の祈りは「天になるとおり、地にもなるように」だ。果たして天に病気や問題や貧困があるだろうか? |
↑4 | ただし、再建主義との違いは前に指摘したので、繰り返さなさい。 |