
昨今、メシアニックジューなどがもてはやされ、ユダヤ教の祭りを行うクリスチャンたちも出現している。何か、その儀式そのものに霊的意義やパワーがあると感じている雰囲気すらある。ショーファーと呼ばれる角笛を吹いたり、ロシュ・ハシャナなどの日を有難がったりする。極端な人々はロシュ・ハシャナが最後のラッパとして携挙の日であるとか・・・。
しかし、これらの考え方や実行はまったくの迷信であると指摘しておく。それらはすでにキリストにあって成就しており、現在は無意味であると。
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、-というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから-いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。
・・・このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。-律法が何一つ完全なものにしなかったからです-しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。-Heb 7:11-19
今、われわれはニュークリーチャーとして新しい律法(The Law)、すなわちいのちの御霊の法則(The Law Of Life Of The Spirit)に従うのである。
それはモーセの石の律法の上位互換であり、いのちの御霊の法則に乗るならば、自動的にモーセ律法を満たすのだ(断っておくが、私は再建主義者ではない。富井氏との相違は上の記事を参照してほしい)。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。-Rom 8:4
かくしてわれわれは肉に対しては責任を負っていない(Rom 8:12)。御霊に従うことにこそ新約の本質があるのだ。
安息日を特定の日に限定するのは非聖書的である
安息日は、イエスにおいて成就しました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 」(マタイ11・28)
イエスは、旧約律法を成就するために来られたので、イエスにあって私たちはすでに安息日を守っています。
そして、イエスは「天地のいっさいを神と和解された」(コロサイ1・20)ので、現在、「特定の聖地」なるものは存在しません。あらゆる土地が「聖地」です。
「特定の聖なる食べ物」は存在せず、現在、あらゆる食べ物は「聖なる食べ物 」です。
旧約時代には、豚は汚れているとされていましたが、新約時代において聖なる食べ物です。
「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。 」 (ローマ14・14)
ですから、酒やタバコを忌避するのは、非聖書的であり、それは「それ自体で汚れているもの」を作り出すことです。
同様に「特定の聖日」なるものは存在しません。毎日が聖日です。
ですから、月曜日であろうが火曜日であろうが、すべて安息日であり、聖日です。
新約時代における原則は「ものそのものに聖俗はない」ということであり、ただ「動機によって聖にもなるし俗にもなる」ということです。
「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」(ローマ14・14)
「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、 『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか。 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」(コロサイ2・20-22)
安息日を特定の日に限定し、他の日を俗なるものとし、酒やタバコを汚れた食物とし、その他を許可するような教えは「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定め」であり、「人間の戒めと教え」なのです。