
いつもの再建主義者富井氏の論。・・・うーん、何か変だ。イエスの十字架はどこへ行ってるのだろうか? あの姦淫の現場を捕らえられた女もイエスによる断罪は受けなかったのだが。ただし、この経緯についてはこのように説明されている。主の十字架はすべての人のためのものであった。が、その恩恵に与るためにはフェイスに入り、主の死と復活とひとつにされる必要があるのだが・・・。悔い改めはどこに位置づけられるのだろうか?
聖書的な社会において不倫者は処刑される
遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。(箴言6・26)
聖書を真剣に読んでいる人で、不倫をする人はいない。
なぜならば、他人の妻は、夫との間に「夫婦契約」を結んでいるからだ。
この人間の基本的な契約関係を破壊する行為は、「尊いいのち」を奪う。
つまり、不倫は死に直結している。
神は人間を「男と女」に創造され、それを「神に似たもの」であると言われた。
つまり、「夫婦関係」は「神の象徴」である。
神が複数の人格が契約で結ばれて一人となっているように、夫婦も契約によって結ばれて一人である。
不倫は、この似姿の破壊であり、神への直接的な攻撃である。
殺人は神の似姿として造られた人間の命を奪う行為であり、それを神は「自分に対する殺害」とみなされる。
写真につばをかける行為が、本人への侮辱にあたるように、似姿である人間に対する攻撃や侮辱を、神はご自身に対する攻撃や侮辱ととらえ給う。
殺人者は、「神を殺す者」とみなされる。
不倫は、神の三位一体の関係を破壊する行為であり、それゆえ殺人と並ぶ最大級の犯罪である。
殺人者と不倫者に対する刑罰は、それゆえ、死刑以外ではありえない。
聖書的な社会において、この両者は、処刑される。
聖書的な社会において不倫者は処刑される2
偶像礼拝と殺人と不倫は、聖書における3大犯罪である。
殺人と不倫の違いは、「容赦の余地があるかないか」である。
前者は「容赦されない」が、後者は「容赦の余地がある」。
殺人者は祭壇の角につかまっていても、そこから引きずり出して処刑された。
しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。(出エジプト記21・14)
祭壇の四隅についていた角につかまる行為は「贖いの主張」である。
犠牲の動物(キリストを象徴)の代償的な死によって赦しを乞う行為である。
新約時代においては、人は、キリストを通じて罪の赦しを祈ることによってこのことを行う。
計画的な殺人者は、このような贖いを受けられない。
つまり、容赦の余地がない。
しかし、不倫については、容赦される可能性がある。
マリアは、ヨセフと結婚関係にあったが同居していなかった。
そのとき、聖霊によってイエスを胎内に宿した。
ヨセフは悩んだ末に、長老に訴えることなく、内密に離縁しようとした。
聖書はここで「ヨセフは正しい人であっ」たと記している。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1・19)
つまり、「内密な離縁」は、律法に則った姦淫の処理の方法だったということである。
被害者である配偶者が望めば、無罪にできたのである。
このように、聖書における刑罰は、被害者が決定できる。
「目には目」の原則は、「償いは、被害と同等を上限とせよ」という意味である。
目をやられたら文字通り、被害者は相手の目を潰すことができる。
目を潰すよりも賠償金を受け取るほうがよいと思うならば、そのようにできた。
賠償金の上限は、目の値である。
不倫とは異なり、殺人には賠償金はない。
あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。(民数記35・31)
聖書的な社会において、故意の殺人者は「例外なく」処刑される。

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