仏教や神道といかにお付き合いするか
2018-10-02

この写真を見て、またぞろ、ニッポンキ業界聖霊派の人たちが、主のわざがなされた、これから大リバイバルの波がクル~とかオメデタくもヒステリックな歓声を上げているようだ。ああ、なんとも幼稚園児的。この延長線上に例の油まき事件があるわけ。
仏教はそもそも礼拝対象はないし、釈迦も自分は人間であって、礼拝される者ではないと言っている。また超現実主義だから、死後のことや死者を祀ることもしない。それは葬式仏教に堕落した姿だ。
仏教は元々世界の認識論であり、ロマ書1章20節の認識を得ている。この神性を彼らは仏性と呼ぶが。そして来世とかに極楽を期待するのではなく、<今・ここに>、極楽を経験することを求める。それが悟りであり、回心あるいは覚醒だ。
そのために法に乗ることを説く。この法はもちろん聖書的にはアダム系の法であるが、自力を抜いて法に任せた生き方こそ極楽であるとする。道元はこれを心身脱落、親鸞は自然法爾と称した。一般には自己放下と言う。
神道にはもともとユダヤ教の影響が見られるし、偶像を拝むことはしない。西行が伊勢に詣でたときの短歌、
何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
この「何事」のアイデンティティが不明にされているだけだ。サイエンスではID理論。インテリジェント・デザイン論が台頭しているが、現代の科学の最前線では何か人知超える存在が創造したと考えざるを得なくなっているわけ。では、誰が? ここにフェイスが働くのだ。
聖霊派のみなさま、この程度の知識を学んでから、主張されてくださいな。そうでないと、クリスチャンはアホですかと言われますからね。主の名をかえって貶めるだけですよ。

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