十字架って何でしょう-砕かれるべきものとは?
クリスチャンがよく陥る罠が十字架における自己の死だ。これを宗教的に自分勝手に理解して、自我を否んで~、自我を十字架につけて~、自分は何もしない・・・、と。これでいわゆるクルシチャン化したり、受動性の罠に陥る。
十字架は生まれついてのアダムにある古い人由来の魂(soul)由来のエネルギーから御霊による復活のキリストのいのちの(霊的)エネルギーに切り替える場なのだ(☞信仰と精神分析について)。十字架における自己の死とは、魂の機能である思い・感情・意志の機能を停止することでは決してない。むしろ復活のエネルギーで作動する魂は栄えるのだ(3John 1:2)。十字架が働けば、復活のいのちが流れる。このいのちのエネルギーで、いのちの御霊の法則に乗って生きること、これがクリスチャンの生だ。
砕かれるべきは、アダム系にあって構築されたセルフの偽りのマトリックスであり(☞「わたし」って何でしょう@YouTube)、それはマインドセットのトランスフォームによるのだ[1] … Continue reading。自我、すなわち私の意識の中核が砕かれることではない。自我は正常に活動するのである。この偽りのマトリックスは新しいいのちの現出にとって妨げとなる。だから取り扱いを受ける必要がある。この時に行われるのが御霊による御言葉を用いた霊と魂の分離オペである(☞霊と魂の分離について)。
死だけでは何もなされないし、神の御心はなされない。復活があって初めてそれは成就する。むしろ、復活の領域では死者が生き返り、病人は癒され、悪霊も追い出されという人間にはとうてい不可能な事象も起こる。いや、それをなせと主イエスは命じられているのだ(やばいでしょ?)。この復活の段階までが起きてこそ神の国の現出と神の栄光が現れる。
神の国はロゴスの中にではなく、力(デュナミス)のうちにある(1Cor 4:20)。その力とはイエスを死から甦らせた神の力(Eph 4:19-20)。だから死者がよみがえって当然なのだ。この復活のキリストのいのちを吹き込まれた存在がエクレシア。エペソ1:23に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(新共同訳)となるが、これは不正確。岩波訳が正しい。すなわち「・・・方の充満である」。場があって、そこに満ちるのイメージではない。その方の充満そのものがエクレシアだ。その方とはキリスト。ゆえにエクレシアはキリストである[2] … Continue reading。
エクレシアにはハデスの門も打ち勝てない。よってますますアクティブに、大胆に生きるのがクリスチャン。私たちのこれまでも既成概念を打ち壊してもらう必要がある。古い着物(キリスト教なる宗教)にいくら新しい布でパッチワークしてもかえってボロボロになるだけ(Luke 5:36)。新しいワインは新しい革袋に入れるのだ(Matt 9:17)。終わりの時代、われらの主は、この新しい着物と新しい革袋のパワーを知れ、と迫って来られるのだ。
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