フェイス

エクレシアとはキリストである

今回のメッセにおいて、「われわれはキリストである」と言った。「いよいよDr.Lukeも自分を再臨のキリストと言い出したとか、自分を神格化している」とかいきり立つむきがあるであろう。このような人々のマインドのマトリックスは白いキリスト教神学によって汚染されている。

キリストとは元々「油注がれた者」の意味。この称号をメサイア(=救い主)と同一視できるのは、あのナザレのジーザスにおいてのみである。つまりナザレのジーザスはメサイアとして油注がれた者である。エクレシアはひとりの新しい人(Eph 2:15)。そのエクレシアの頭なるキリスト・ジーザスに注がれた油が、御体であるエクレシアにもしたたり流れており、キリストの充満として、われわれも油注がれた者(=キリスト)なのだ1) からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である(1Co 12:12)。ここでパウロは「キリストの体の場合も同様である」とはしていない。「キリストの場合も同様である」だ。つまりパウロはキリストと体を同一視している。彼が迫害者であったとき、天からの光で打ち倒されたときに聞いた言葉は、「サウルよ、なぜわたしを迫害するのか」だった(Acts 9:4)。 。が、メサイアではあり得ない。

エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です2)ここを「満ちておられる場」とか訳すので真理から外れる。<エクレシア=キリストの充満 ∴エクレシア=キリスト>であろう。。-エペソ1:23

そもそもわれわれの霊はエロヒムの霊であり、そのうちにYHWH(I-AM)が住まわれる。

神の言葉を生じさせられた人たちが、『エロヒム』と言われている(原語)。そして、聖書が廃れることはありえない。-ヨハネ10:35

イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。-ヨハネ14:23

そのI-AMがわれわれの体と魂を通してエミュレートされる。このことをナザレのジーザスはデモンストレーションされた。

確かに偉大なのは、この敬虔(エウセベイア)の奥義である、「神は肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」。-1テモテ3:16

これがエウセベイアの奥義。彼は自分からは何もすることなく、うちにおられる御父の言葉を業をデモンストレーションされたのだ。そしてこう言われる:

わたしを信じる者はわたしと同じ業をなし、さらに大いなる業をする。わたしが父の元に行くからである。-ヨハネ14:12

今、父の元にいますジーザスは、いのちを与える霊として(1Cor 15:45)、聖霊にあって私たちのうちにもおられる。その方のうちには御父もおられる。かくしてもっとも高きエロヒムである相互内住(ペリコレーション)の父・子・聖霊にいますYHWHが、私たちのうちで語りまた業をなされるのだ。ゆえに主は、わたしたちはご自身から離れては何もなし得ないと言われる(John 15:4-5)。

御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。-ヨハネ16:14-15

かくしてあのキリスト(The Christ)がなされたことがキリスト(christ)であるわれわれにおいて再現される。ただし、私はわれわれがナザレのジーザスとは言っていないし、エロヒムであると言っているが、YHWHであるとも言っていないことに注意すること。何度も指摘するようにエロヒムとは霊的領域あるいはカテゴリーである(Dr.Heiser)。

国債を国の借金(政府の借金である)とすることからPBバランスなどの狂気の政策が生まれ、貧困化の道をひた走るニッポンと合わせ鏡として、聖書の単語を曖昧なまま霊的貧困化の道をひた走るニッポンキリスト教。なんでも愛して許して、細かいことに目くじら立てず一致を守って・・・・と。が、真理を棄損した霊的成長などはあり得ない。

戦後GHQの監督下でブームになったキリスト教業界で現在看板を張っているセンセイ方の残された負の遺産は、聖書翻訳の問題も含めて、かなり大きいものがある。再度繰り返す:

キ業界よりエクソダスせよ!3)これは別に業界と縁を切れと言っているのではない。まずマインドを白いキリスト教またニッポンキリスト教のマトリックスから解き放つ必要があるのだ。

エレミヤ書にはエクソダスは二回。エジプト(世)からと捕囚(宗教)からのそれだ(Jer 16:14-15)。

Follow me!

3 1 vote
Article Rating

References   [ + ]

1. からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である(1Co 12:12)。ここでパウロは「キリストの体の場合も同様である」とはしていない。「キリストの場合も同様である」だ。つまりパウロはキリストと体を同一視している。彼が迫害者であったとき、天からの光で打ち倒されたときに聞いた言葉は、「サウルよ、なぜわたしを迫害するのか」だった(Acts 9:4)。 
2. ここを「満ちておられる場」とか訳すので真理から外れる。<エクレシア=キリストの充満 ∴エクレシア=キリスト>であろう。
3. これは別に業界と縁を切れと言っているのではない。まずマインドを白いキリスト教またニッポンキリスト教のマトリックスから解き放つ必要があるのだ。
Subscribe
Notify of
guest
0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments