ヒルソングのワーシップリーダーがフェイスを捨てると宣言したそうだ。先にも結婚のミニストリーで有名だった牧師が棄教した。なんだか続くが、極私的には10年以上前から、現代はふるい分けの時代であると警告している。この記事は2008年のものであるが、今日的意義があるので、手を加えて再掲する。当時はエレミヤの16章に気づいていなかったが、エクソダスは二回あるのだ。

主は言われる、それゆえ、見よ、こののち『イスラエルの民をエジプトの地から導き出した主は生きておられる』とは言わないで、 『イスラエルの民を北の国と、そのすべて追いやられた国々から導き出した主は生きておられる』という日がくる。わたしが彼らを、その先祖に与えた彼らの地に導きかえすからである。-エレミヤ16:14-15

すなわちエジプト=この世からのそれと、捕囚=宗教からのそれである。戻るべきところはどこか。良き地なるキリストである!


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者(原:魂)となった。-創世記2:7

人の構成を一言で言い表している節であり、要するに、人は、体(Body)が土から作られ、神の息(Spirit)が吹き込まれ、その相互作用によって魂(Soul)となった。人はこの3つのディメンジョンに生きる者とされた。現代の医学では”Psycho-Somatic Medicine”とあるように、身体(Soma)と精神(Psyche)の相互関係として人を理解する段階までは来ている。が、霊(Spirit)までは来ていない。WHOの健康の定義の草案に「霊的健康」が入る直前までは来てはいるのだが。極私的には「霊-精神身体医学」を提唱している。(参考:人間の聖書的啓示と現代精神科学

霊の再生を得ていない人たちではもちろん神と触れることはできないし、神を認めない。当然である。目が機能していない人には光は無意味であるし、それが何かを認めることもできない。これは神学の問題でもなく、哲学のそれでもなく、単にセンサーの機能の問題である。よって彼らは自分の体と魂だけで人生をサバイバルしている。この状態、あるいはあり方をパウロは肉(flesh)と呼ぶ。つまり神から切り離され、物理的次元と精神的次元で生きる人のこと。ある人は肉体に頼り、ある人は魂の能力-知性・感情・意志-に頼る。そのスペクトルがその人の人格となる。

そしてある時に自分の肉的生が行き詰まる。この時に運命が分かれる。ある人は飯島愛のようにクスリに逃げ、自殺にも追い込まれる。ある人はどなたか分からないままに”神”に救いを求める。私は19歳の浪人時代に書いた日記に「神よ、正しく導きたまえ」と書いてあるのをクリスチャンになって後、発見して驚いた。この神は誰か、当時の私は知らなかったのだが。

そして「聖(Holiness)」とは、客観的には神への分離。これはすでになされている事実。主観的には「健やかさ」であり、英語では”Wholeness”。つまり「全体性」あるいは「統合性」。前に紹介した道元の研究者で東大の生理学教授だった橋田無適の「全機」である。体・魂・霊の間に齟齬がなく、ひとつの統一体としていのちの法則に乗って伸び伸びと機能する状態である。これが道元の心身脱落である。対して苦悩とは、体と魂の間、魂の知・情・意の間に齟齬が生まれ、葛藤が生まれる状態である。特に分裂病(統合失調症)は知・情・意の間の統一が壊れてしまう。

一言で言って、クリスチャンが目指すべき神の御心に沿った生き方とは、難行苦行でもなく、日本民族総福音化のための決起でもなく、人間として当たり前の日常生活にあって、安らかで健やかな、法に任せた生き方である。この時、内面的にはいのちの広がりの空間を感じ、体も軽く、魂には大いなる満足がある。何かを自分で達成した満足ではなく(これはこれで必要であるが)、ただ生きることにあって満足と喜びを味わえる。この時、見るもの、聞くもの、五感にふれるものがみな喜びとなる。四季折々の光景、鳥のさえずり、光のまたたき、波の音、木々の葉の音、あらゆるものに神性を見ることができ、感動を覚える。

ややこしい神学などはまったく不要。それは無限の神を有限な人の知性に閉じ込める不毛な作業に過ぎない。神はすべての被造物においてきわめて優雅に語って下さるのだ。神はなんと雄弁な方であろう。主イエスは果たしてこう言われたろうか-「カルヴァンの『聖書綱要』を読め、バルトやブルトマンに聞け」と。アブソリュートリー・ノー!主は言われた、「野の花を見よ、栄華をきわめてソロモンもそれほどに着飾ってはいなかった。空の鳥を見てみよ、蒔くことも刈ることもしないが、天の父が養っていて下さる」と。

牧師や教団、またカルヴァンや、バルトだのブルトマンだの、彼らの世界に閉じ込められめさるな。さらにはキリスト教自体に閉じ込められるな。いわんやニッポンキリスト教にをや。イエスはキリスト教の教祖でもなく、キリスト教の創始者でもない。キリスト教神学を組織したのでもない。キリスト教こそは、キリストの名を利用した詐欺宗教である!かのニーチェもそのカラクリが見えなかった。

改めて言うが、ソドム・エジプト化したキリスト教から、乳と密の流れる良き地、いのちそのものであるキリストご自身へとエクソダスせよ。否、し得た者は幸いである。でも、無理にとは申しません。古にあって、良き地に入り得た者は誰と誰であったか、そして彼らと荒野で屍と化した大群衆を分けるファクターは何であったか。それはフェイスだったとヘブル書にあるではないか。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:2-3

欺かれてならない、今は偽り声が満ちる時、フェイクの時代、そして篩い分けの時代なのだから・・・。主の言葉をよくよく思い巡らそう:

わたしの羊はわたしの声を聞き分けて、わたしに従ってくる。

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