使徒行伝3章21節の「時」とは

再建主義者らポスト・ミレ(千年期後に再臨)といわゆるディスペンセイション主義のプレ・ミレ(千年期前に再臨)を分ける聖句はいくつかあるが、その代表的なものがこの節である:

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。(口語訳)

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。 (新共同訳旧版)

ただ、このイエスを、神が永久より聖なる予言者たちの口を通して語られた万事の実現の時期まで、天が受け入れておかねばならないのです。(岩波訳)

Whom the heaven must receive until the times of restitution of all things, which God hath spoken by the mouth of all his holy prophets since the world began. (KJV)

Whom heaven must indeed receive until the times of restoration of all which God speaks through the mouth of His holy prophets who are from the eon.(CLV)

いくつかの訳を示したが、論点は、「預言者たちの口を通して予言した」という修飾句が何にかかるか、である。口語訳は「万物」に、共同訳は「その時」に、岩波訳は「万物」にかかっている。KJVではその前の句全体をして、CLVでは”which God speaks”と「神が語った万物の回復」にかけている。

「万物」にかける場合は、Scofieldなどのように「預言された万物の回復」とは地的イスラエルの再興であるとする[1]Scofieldによれば、このメッセージはあくまでも民族的なものであり、前節の「慰めの時」とはイスラエルの再興であるとする。。「預言された時」にかける場合は「万物の更新」の意味が問われる。この点はポスト・ミレもプレ・ミレも共に千年期としている。

再建主義者は「万物が更新されるまではイエスは天にとどまる」とする。万物更新が完成する時とは千年期を指すわけで、千年期が完成した後に天から下るとするわけ(ポスト・ミレ)[2]AD70にも携挙と一度目の「再臨」があったとする。「再臨」が二回あるのだ!?。対してディスペンセイション主義では「万物更新の時までは天にとどまる」とする。つまり千年期が開始されるまでは天にとどまり、千年期開始の前には天から下るとする(プレ・ミレ)。

ここで大切な点は「時」と訳されたギリシャ語は複数形であることだ。この点、再建主義では時代を区分せず、すでにAD70以降は千年期であるから、「時」は単数形とすべきであろう。複数形である以上、神の経綸の時はいくつかに分けられるのだ[3]ディスペンセイション主義では、無垢の時代、良心の時代、人間統治の時代、約束の時代、律法の時代、恵みの時代、王国の時代と区分する。。その中にもちろん、いわゆる「異邦人の時(恵みの時代)」と「千年期(地的イスラエルの回復と天における主と共なるクリスチャンの統治)」が含まれている。

なお、極私的にはこの「主義」にはあえてこだわらない。ディスペンセイション主義はあくまでも聖書理解のフレームのひとつであって、Dr.Luke的には聖書の全体像を次のふたつのシェーマでまとめている。

また、「更新」とされた単語は”apokatastasis”であり、実は医学の専門用語である。Vincentによると

As a technical medical term, it denotes complete restoration of health; the restoring to its place of a dislocated joint, etc.

とある。

そして新約ではここと、マタイ17章11節のみに出現する。

答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」-Matt 17:11

この「改める」が「更新」と同じ単語である。これに対応する聖句[4]御言葉には必ず「連れ合い」がある(Isa 34:16)。はマラキ4章5節である:

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。

さて、この「主の大いなる恐るべき日」とはいつのことだろう。啓示録にはこうある:

神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。-啓示録6:17

再建主義では啓示録の19章まではAD70をもって成就しているとする。するとこの「日」もすでに来ているわけで、したがってエリアも来て万事を回復していることになる。しかし、ヘブル書にはこうある:

「・・・すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。-ヘブル2:8

再建主義でも、現在は法的に天地の全権がイエスに与えられたが、実際的にはまだその権威に万物が従っていないことを認めている。だからこそ、悪魔のシオニズムとその傀儡であるメーソンやイルミナティによる世界統一政府の陰謀を暴露して破壊する必要があるのだ。彼らにおいては、主の大いなる恐るべき日が来ていると言うことは、その前にエリアが来て万事を元どおり改めたはずなのだ。このエリアの業も法的なものであると言うのであろうか?

かくして「万物が改まる時(複数形で千年期も含む)」まではイエスは天に留め置かれるとする方が自然な読みとなる。「再臨」が二回あるとする再建主義者の論は、すでに教父の証言によっても否定されているし、解釈に無理があると言わざるを得ない。聖書は素直に読めば、すーっと理解できるものである。もちろん聖霊の照明が必要であることは論を待たないが。

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1 Scofieldによれば、このメッセージはあくまでも民族的なものであり、前節の「慰めの時」とはイスラエルの再興であるとする。
2 AD70にも携挙と一度目の「再臨」があったとする。「再臨」が二回あるのだ!?
3 ディスペンセイション主義では、無垢の時代、良心の時代、人間統治の時代、約束の時代、律法の時代、恵みの時代、王国の時代と区分する。
4 御言葉には必ず「連れ合い」がある(Isa 34:16)。

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