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「クリスチャンになっても罪人である自分の本質が変わるわけではない」と再建主義者

いつもの再建主義の富井氏の論。なるほど、契約的合一と存在論的合一の区別か。確か以前に、聖霊が来られるとき父と子は契約的に私たちの内に住まわれると主張していた。存在論的には、あくまでも地上には聖霊がおられるだけと。

要するに前から指摘しているように、いのちの面の理解が欠如しているわけ。私たちの霊はYahawehエロヒムにより分与されたエロヒム属の霊だ(1John 4:13)。それはYahawehの種であるロゴスから産み出された存在。ロゴスを内在化された者はエロヒムである(John 10:35)。

確かに今の旧創造に属するボディには罪(Sin)が残るが、それはすでに無力化されている(Rom 8:3)。そして今、私たちは神の義とされている(2Cor 5:21)1)これは義と認められることを超えて、義とされた(ginomai)ことを言っている。いわゆる義認のレベルの話ではなく、存在論的に神の義であるとパウロは証ししているのだ。。そしてわれわれニュークリーチャーは律法に対して死んだゆえに、律法の下にはいない(Rom 7:6)。

私は聖書の真理を理解するために善悪を知る知識の木といのちの木の平面、すなわち経綸的側面と本質的側面と区別している。聖霊と人間の関りイスラエルとエクレシアの関係など、この二面で理解する。すべては新しく生み出されたいのちの問題である。私のフレームから見ると、富井氏は経綸的な世界に生きていると言える。だから律法がクローズアップされ、本質的な質の変化もないと言う立場に陥るのだ。

というわけで、これも資料として採取させていただこう。

クリスチャンになったら、自分の本質そのものが変化し、もはや罪人ではなくなり、神の子になるのだろうか。

そうではない。

契約的合一と存在論的合一を区別しなければならない。そうしないと汎神論になる。

クリスチャンになることは、キリストの体である教会の一員になることを意味する。

キリストと教会は、「契約的に」合一しているのであって「存在論的に」合一しているのではない。

教会は、キリストではない。

「夫と妻は一人である」という教えは「夫と妻の二人は存在論的に一人になった」ということを意味しない。

人格はそれぞれ別である。

夫婦は「契約的に一人」なのである。

われわれがクリスチャンになり、キリストの体の一員になったからと言って、われわれがキリストそのものになるわけではない。

われわれが本質的に持っている自分の罪人としての性質が変わるわけではない。

それゆえ、われわれは、自分のことを罪人として自覚すべきである。

「クリスチャンになったらキリストの御体の一員になったのだから、本質が変化したので、もはや罪人ではない」という教えは、異端である。

「私と妻は一人である。だから私は女でもある」と言えないのと同じである。

契約的合一は、構成員の本質に変化を生じさせない。

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1. これは義と認められることを超えて、義とされた(ginomai)ことを言っている。いわゆる義認のレベルの話ではなく、存在論的に神の義であるとパウロは証ししているのだ。
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