携挙はすでに起きたと再建主義者-携挙も再臨も二種類-

Dr.Luke的日々のココロ

携挙はすでに起きたと再建主義者-携挙も再臨も二種類-

携挙はすでに紀元70年までに終わっています。

なぜならば、パウロが「生き残っている私達が・・・」とテサロニケ教会の人々に語っているからです。

パウロは明らかに同時代に携挙があり、再臨があると信じていました。

もし携挙が未来にあり、再臨が未来にあるならば、パウロがここで述べたことは「外れた」ということになります。

すると外れた予言が聖書に入っていることになり、聖書に誤謬があるということになる。(*)
・・・
「歴史的な、一回限りの」携挙はすでに終わっていますが、「個人的な、クリスチャンならだれにでも起きる」携挙(肉体的死の後に起きる昇天)は「信仰のみ」によって可能です。

(*)「パウロ自身は殉教しているので外れたのではないか」という人がいるかもしれませんが、この文脈は個人に関する運命を扱っているのではなく「テサロニケ教会の人々」を主題として彼らへの慰めとして述べられている個所ですから、例外としてその教会の誰かが先に死んでしまうこともあるかもしれないし、また、パウロが個人的に携挙の前に殉教し、それに含まれていなかったとしても問題はありません。
あくまでも携挙によってテサロニケ教会の人々は天にあげられ、イエス及びすでに亡くなった兄弟姉妹と会えることが強調されているのです。

http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda4/22novlRkY89ek22948.htm

「歴史的な、一回限りの」携挙と個人的な、「クリスチャンであればだれにでも起きる」携挙(肉体的死の後に起きる昇天)というように1)肉体の死を個人的携挙とするのは私が疑問を呈した後に初めて主張し出した経緯がある(☞「肉体の死が携挙である」と再建主義者)。、「携挙」には二種類あると言うわけだ。これもまた???な主張である2)要するに終末預言をAD70の一回限りのものとするためには、「再臨」も「携挙」も二回あるとせざるを得なくなるわけ。終末預言がAD70を含めた現在にも適用されるべきものとすれば、再臨も携挙もこれからあるべき一回性の歴史的事象となる。

そして面白いのは(*)の部分。これは明らかに私の反論(☞再建主義者の「再臨と携挙を未来の出来事とするのは悪魔教である」を論駁する)を意識しているわけだ。「再臨」が二回あると言い出したのも私の反論(☞二重写しの預言か、二重の再臨か?)に対してと思われるが、けっこうここを読んでくださっているようではある😊

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References   [ + ]

1. 肉体の死を個人的携挙とするのは私が疑問を呈した後に初めて主張し出した経緯がある(☞「肉体の死が携挙である」と再建主義者)。
2. 要するに終末預言をAD70の一回限りのものとするためには、「再臨」も「携挙」も二回あるとせざるを得なくなるわけ。終末預言がAD70を含めた現在にも適用されるべきものとすれば、再臨も携挙もこれからあるべき一回性の歴史的事象となる。

 

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