フェイス

再建主義者の聖書理解を批判してみる

いつもの再建主義の富井氏によると聖書のエッセンスはこうなるようだ。ちょっと検討してみたい。

聖書の中心的なメッセージは次のとおりである。

1.アダムは創造されたときに「もし神の命令をすべて守るならば、永遠の命と、被造物を支配する永遠の王になれる」との約束を与えられた。しかし、堕落し、失敗したので、アダムから生まれるすべての人は「生まれながらの契約違反者」である。

「神の命令をすべて守るなら」とあるが、YHWHエロヒムはすべての木から食べて良いが、善悪を知る知識の木の実は食べてはならないと命じた。「すべて守る」のではなく、「例外のひとつ以外、すべてが許可されている」のだ。この違いは大きい。が、アダムは失敗し、彼により世界に罪が入り、全人類に死が支配することになった(Rom 5:12)。

2.イエス・キリストは、人間に代わってすべての律法を守り、信じるすべての人間の罪の刑罰を負って処刑され、人間が果たすべき神のすべての要求を満たされた。

キリストはすべての人のために死なれた(1Cor 15:22;2Cor 5:14-15;Heb 2:9)。特に―

つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。-1Cor 15:22

「アダムにある状態」とジャスト同じに「キリストにある状態」に転換する。このために、フェイスにあってキリストのうちにインプラントされる必要がある(Rom 6:3-5)。すべての人は十字架により裁かれて死んだが、フェイスによる応答がないと復活していないのだ。復活はただフェイスによる。

3.そのため、神はアダムへの約束を果たし、キリストを復活させ、永遠の命を与え、昇天させ、永遠の王とされた。

ほぼ同意だが、「アダムへの約束」とは創世記3:14-15(Gen 3:14-15)のことだろうか? 「アブラハムへの約束」ならば、女の種(単数形)であるキリストご自身であるが(Gal 3:16)。アブラハムへの約束こそ新契約そのものであるキリストであり、その430年後に付加的に入った律法によって無効とされなかったのだ(Gal 3:17)。YHWHの意図は律法ではなく、キリスト(=いのち)である。

4.人間は、イエス・キリストを信じることによって、アダムとの契約を断ち切り、アダム族であることをやめ、キリストとの契約を結び、キリスト族となる。

主語が問題。「人間は・・・する/なる」のではない。「私が律法を行うことではなく、私が御子を信じることにより救われる」がプロテスタントの根本だが、これの主語はあくまでも「私」(☞プロテンスタントの誤り)。正解は「律法の働きは私を救わないが、御子のフェイスが私を救う」である。「私」は主語ではなく、目的格だ。私ではなくキリスト。

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。-Rom 3:28

これは旧版の新共同訳であるが、新改訳だと「律法を行うこと」とある。主語は誰か? 「私が」である。NO. 律法エルゴンではなく、フェイスによるのだ!

また、アダム族からキリスト族への転機も契約的であると主張するが、単に「契約的に」ではなく、エロヒムとしての同じいのち(Zoe)の共有による。同じ霊のDNAを組み込まれているのだ!(☞神の新創造-神の霊的遺伝子工学

5.キリスト族となった人は、契約的にキリストの体の一部であり、それゆえに、キリストにあって、すべての律法を守り、罪を処罰されたとみなされる。さらに、キリストにあって復活し、永遠の命に与り、キリストにあって昇天し、永遠の王になる。

キリストの体になることも「契約的」と。私の頭と体は契約的に一体なのではないように、私たちはいのちの共有体としてキリストの体の一部に構成された。後半は同意。

6.クリスチャンは、キリストとともに天の王座に座っており、地上をキリストとともに統治する責任を負っている。歴史は、神の国の発展の舞台であり、時間とともにキリストは地上において勝利され、いずれ全世界がキリストの御国となる。

同意。問題はその時期だが。再建主義では、現在がすでに千年期とするわけ。YHWHの業は天地創生の時にすでに完成しており(Heb 4:3)、その永遠のリアリティーが我々のフェイスと共に働かれるYHWHの力によって<今・ここ>に現出する。

7.クリスチャンは、大宣教命令を守り、ノンクリスチャンに福音を伝え、イエス・キリストが命じたすべてのことを守るように訓練しなければならない。

同意。

以上の主張で明らかなとおり、彼の聖書理解のキーワードは「契約的」。これはカルバンやラッシュデゥーニーの影響であろうが、理解が平面的なのだ。この図を再掲するが、いのちの木の次元と善悪の木の次元で立体的に理解する必要がある。私はいのちの次元を本質性(スーパーナチュラルな領域)、悪の次元を経綸性(ナチュラルな領域)と呼んでいる。

一方で、富井氏は律法だけを強調するのもおかしいとする(☞律法強調に伴う危険)。聖霊によらずして律法を守ろうとすることの危険性を言っているのであろう。つまり、契約的に断罪されたアダム族にあった人が、信仰により契約的にキリスト族とされ、聖霊を受けるならば、その力によってアダムがなし得なかった契約を完全に守ることができる、と言うのだ。主語はだれか、「私が」である。

と言う次第で、いのちのディメンジョンが完全に抜け落ちている。YHWHのすべての御心に沿う生き方はアダムにある「私」はできなかったが、その「私」をキリストと共に十字架で終わらせ、復活させ、昇天させてくだった。だれが? 主語は「YHWH」。それはいのちのレベルをスーパーナチュラルに相転換したのだ。契約性は条件ではなく、結果。主が私を新しい契約に置いてくださったのだ。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対するのフェイスにあってでです。-Gal 2:20

このとき、フェイスはエルゴン(ワークアウト)されるのだ(James 2:22)。いわゆる<信仰VS.行い>あるいは<恵みVS.律法>の対立は単なる神学のマトリックスに過ぎない。

クリスチャンはニュークリーチャー、エロヒム属であり、契約的にYHWHと関わるだけではなく、エロヒムのいのちを共有するエロヒムなる存在として、TriuneなYahawehエロヒムと関わるのである。それはまことの親子関係である。そしてキリストの全ては私のものとされているのだ。なぜ? キリストと私は不可分な存在であるから!

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