iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

この編はダビデがバテシバと過ちを犯した後、預言者ナタンによって諫められた時、YHWHに対する悔い改めのことばである。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(新改訳旧版)
新改訳には常に訳者の神学によるバイアスがあることは何度も指摘しているが、ここはその最たるものである。まさに、生まれつき罪(原罪)を得ていたと。
ここでまず邦訳を比較しよう:
見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。(口語訳)
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。(新共同訳旧版)
これらの訳では、わたしが罪を持っていたのではなく、罪あるいは不義の中に生み出されたと解することができる。岩波訳では-
じじつ、咎のうちにわたしは産み落とされ、罪過のうちにわが母はわたしを孕んだのです。
英訳をいくつかリストしてみよう-
Behold, I was shapen in iniquity; and in sin did my mother conceive me. (KJV)
Behold, I was brought forth in iniquity, and in sin my mother conceived me. (LITV)
Lo, in iniquity I have been brought forth, And in sin doth my mother conceive me.(YLT)
Behold, I was brought forth in iniquity, and in sin my mother conceived me.(HRB)
Behold, in iniquity was I brought forth, and in sin did my mother conceive me. (Darby)
いずれも”in iniquity”であり、「罪を有して」の意味はない。さて、ここで復習をすると-
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。-Rom 5:12
後半部については前置詞”epi”の解釈で分かれることはすでに指摘したので、そちらを参照されたい。この節のポイントは-
- 一人の人(アダム)により罪が世に入ったこと
- 罪により死が入り込み、すべての人に沁み込んだこと(永井訳)
である。罪はどこに入ったか。世(kosmos)である![1]“kosmos”にはもちろんその世界に住む者たちも含むが、あえて後半では”anthropos”として区別していることに注意してほしい。 結果として、全人類(anthropos)に死が浸透した。今の身体はその死の支配下にあるゆえに、人は生きる限り必ず罪を犯すことになる(私は「人類が罪を犯さない」と言っているのではないから注意してほしい)。
律法のなかった時代(=罪が認知されない時代)にもアダムの違反と同じ罪を犯すことがなかった人がいたが、彼らも死の支配は免れなかったのである(Rom 5:14)。ゆえにパウロはロマ7章において、この死の体から誰が救い出してくれるのかと叫ぶのだ(Rom 7:24)。ここでアダムの違反とパウロの罪の違いはすでに述べている。
かくしてダビデは罪が入り込んだこの世の中に産み出されたのである。またダビデの母は”in sin”においてダビデを受胎したとあるが、性交自体は罪ではない。この部分については岩波訳の注を引いておく-
「孕んだ」は、(家畜が)発情して受胎したの意(創30:41;31:10)で、人について言われているのはここだけ。題詞で本詩の作者とされるダビデについてかかる事実は報じられていない。
と言うわけで、ダビデの母がなんらかの罪的な行為においてダビデを受胎した事実を指摘しているわけではないと言える。
新改訳は明らかに意図的に、罪を内在化されて生み出された、とするが、これはいつもながらではあるが、すでに新改訳の訳者たちの神学的な解釈が入り込んでいると言わざるを得ない。素直に読めば、罪が満ちている環境の中においてダビデの母は受胎し、ダビデもその環境の中に産み出された、と読めるであろう。
繰り返すが、アダムにあっては人類は死の浸透を受けて、その結果として罪(罪と死の法則)の支配を受ける(Rom 7:23)。対してキリストにある新人類はいのち(Zoe)のインプラントを受け、その結果としていのちの御霊の法則により罪と死の法則から解かれる(Rom 8:2)。
カギは何か? 罪を犯すか、否かでない。死か、いのちか、である。かくして十字架とはいのちの交換の場であると言えるのだ。


TODAY’S CELEBRATION Aug 23, 2020:罪による死の支配から義によるいのちの支配へ
MSGタイトル:罪による死の支配から義によるいのちの支配へ 引 …
- MSGタイトル:罪による死の支配から義によるいのちの支配へ
- 引用聖句:Rom 5:12-21;7:4-6;8:2;10-11 etc.
- 2020年8月30日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13:00-15:30(8月より時短とします) - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。


これはフリードリッヒ・リストの言葉。今回の三橋氏のビデオにて紹介されていたが、これは私がすでに指摘しているB/Sのつながりそのものである。

富(マネー)の究極的担保は「国富」。これは次の図を見てもらうと、リストの言と同じである。再掲しておこう:

繰り返すが、幼稚園児に一億与えても紙飛行機になるだけだが、東大生に提供すれば何か新しい価値を生み出す。前者はハイパーインフレ、後者はさらに一億与えればさらに新しいものを生み出すという、いわゆるマイルドなインフレによる経済成長を生む。MMTはまさにこのリストの言を複式簿記によって数値的に証明しているのだ。
現在のわが国の問題は、深刻なデフレ(人体で言えば、血流不足)により、この生産性が摩耗していることである。派遣やUberEatsなどのギグワークにより、技術や知識の継承が途切れ、新しいモノを作れなくなる。これがために、マネーをいくら注入してもジンバブエとなるわけだ。こうして緊縮論者たちの予言が自己実現的に成就してしまうことが、今、もっとも恐れるべきことである。

中東の反イスラエル国がイスラエルを認知する方向に一挙に進む可能性が高い。これまでどんなに努力してもできなかったことが、いとも簡単に成就した感があり、ちょっと拍子抜けでもある。
ダニエル書の聖なる都に対する70週の予言については、再建主義者などは、エゼキエル書なども含めて、すでに成就しているとする。SDAでは69週と1週のギャップを認めない。われわれは69週-エクレシアの時代/恵みの時代-最後の1週とのフレームで理解し、この七年間の有様が啓示録(黙示録)に詳説されていると解釈している。
そして、こちらのメッセでも語ったが、2020年はメトニックサイクルから計算して、ユダヤの祭りのスケジュールと照合するとき、最後の7年の開始年の候補のひとつでもあるのだ。
YHWHエロヒムの業が進むときは実にスムーズ。人がどんなに努力してもならなかったことが、あれっ!?という間に成し遂げられる。最後の7年の開始か否かは現在はまだ評価できないが、ストップウォッチの目盛りが確実にひとつ進んだことは間違いない。
ちなみに再建主義の富井氏は次のように述べている-
「黙示録の状況が現れ始めた。再臨が近い!」と「クリスチャン」がつぶやき始めている。
彼らに尋ねて欲しい。
「なぜ悪を止めようとしないのですか」と。
「これは聖書に予言された状態なので、止めても無駄です」との答えが返ってくるだろう。
ここですでに「地を従えよ」や「地の塩・世の光となれ」と矛盾している。
また「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(1ヨハネ3・8)を否定している。
これだけ多くの聖句と矛盾する教えを信じている以上、彼らをクリスチャンとして認めることはできない。
彼らは偽クリスチャンであり、こういった教えを教える教会は「偽教会」である。
彼らを支援する献金は、献金ではなく「偽献金」である。
というより、悪魔のしわざを放置するので「悪魔の支援者」である。・・・・
これらは、今のクリスチャンからすると「世界の終末の出来事」である。
しかし、イエスはこの次の節ではっきりと まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
と言われた。
「この時代」とは「イエスの時代」である。
イエスの時代が過ぎ去らないうちに再臨の前兆は起きる。
再臨の前兆がイエスの時代のうちに起きるなら再臨もイエスの時代に起きる。
当然である。
イエスご自身が3つの福音書において明言しておられるのだ。
それに逆らう教えが「悪魔的」でないとどうして言えるだろうか。
「世界の終末が近い」的な教えを唱えている教会は、ことごとく「偽預言者」であり、そこに献金する人も偽預言者である。
自分で正しいことをしているつもりでも、実際は地獄につながる道を走っている。
聖書を誤解し、間違った教えを伝えることは、軽い罪ではない。
これによれば、ヒューチャリスト(未来派)の黙示録理解に立つ者は悪魔的だとなるようではある。

TODAY’S CELEBRATION Aug 16, 2020:イン・アダムからイン・クライストへ
MSGタイトル:イン・アダムからイン・クライストへ 引用聖句: …
- MSGタイトル:イン・アダムからイン・クライストへ
- 引用聖句:Rom 5:12-21;7:16-24;8:2;10-11 etc.
- 2020年8月23日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13:00-15:30(8月より時短とします) - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。


というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。-Rom 5:13-14
この聖句が明らかにしていることは、罪はアダムの違反により世に入ったが(Rom 5:12)、律法がなければ認知されないこと。つまり律法が「むさぼるな」と言ったので、パウロはむさぼりの罪を意識したのだ。
しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 –Rom 7:8-10
ポイントは律法は罪を活性化し、パウロを死へと導いたことだ。なぜなら、律法はいのち(Zoe)を与えないからだ(Gal 3:21)。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。-1Cor 15:56
さて、従来の「人類はアダムの罪を自動的に継承した」論によれば、彼の違反により全人類の体に入ったはずである(Rom 7:17)。この意味で人は生まれながらの罪人であると説教されている。つまり胎児であれ、自由意思を行使できない幼児であれ、遺伝的に罪を得ており、すでに有罪である。私もかつてはこのように考えていたのであるが、ここで次のような問題が生じる。
ロマ書5:13-14においては、「アダムの違反と同じような罪」とある。「同じような」とある原語は”homoiōma”、意味は-
a form; abstractly resemblance: – made like to, likeness, shape, similitude.(Strong)
つまり「アダムの違反」と似た形を持つ(同類の)罪である。では、「アダムの違反」とは何か? 彼は蛇に騙されたエバの誘いに乗ってあの木の実を食べた。エバはYHWHの言葉をあいまいに理解していたが、アダムは正確に聞いていたのである。ここで彼はエバの誘いを取るか、YHWHの言葉を取るかの選択の自由があったのだ。
ここで重要な点は、彼のうちにはパウロの言う内住の罪(単数形)を、その選択の時点では、得ていなかったのだ! エバは蛇に騙されて食べた(cf. 1Tim 2:14)。その時点では、エバも内住の罪を得ていなかった!
対してロマ書7章におけるパウロの葛藤は、思いの法則によればYHWHの律法を行いたいが、体にある罪の法則が彼を虜にして、行えない。それを行っているのは自分ではなく、うちに住んでいる罪であると結論付ける(Rom 7:17)。そして誰がこの死のからだから救ってくださるだろうか、と叫ぶのだ。注意してほしいが、「罪から救ってくださるだろうか」とは言っていない。
つまり彼の犯している罪は「アダムの違反」とは同類のものではないことが分かる。パウロの葛藤は「アダムの違反」の後のものである。当初の聖句に帰るならば、律法がないアダムからモーセの間には「アダムの違反」と同類の違反を犯さなかった者がいたのだ。それは誰か? いろいろな説がある。胎児とか幼児とか・・・。人は無垢の状態で生まれてくるが、ある時に意志をもって罪を犯す。たとえ、律法が与えられていない異邦人であっても、良心がその働きをする(Rom 2:14-15)。良心に咎めのない大人がいないことは明らかである。
この時点で、罪をうちに得るのだ。良心は霊のなごりとも言われている(Mal 2:15)。律法がなければ世にある罪は死んでいる。律法を意識したときに罪は活性化されて、違反を行うとき、私たちのうちに働き出す。律法の与えられていない異邦人であるわれわれにとっては良心がその機能を果たす。かくして、人は人生のある時点で罪をうちに得てしまうのだ。これがパウロの、また私たちの葛藤の開始である。
そしてこの葛藤から解放されるのは、つまり死の体から解かれるのは、新しいいのち(Zoe)を得ることにより、新しいいのちの御霊の法則が働くことによる(Rom 8:2)。このキリストのうちにインプラント・トゥゲザー(sumphutos)されて、その死と復活に組み込まれる(一体化)ことにより、新しいいのちの領域に生きることが可能となる(Rom 6:5)。
すべてはいのちの種類の問題である。アダム系のいのちではなく、キリスト系のいのちへの転機。最も高きエロヒムであるYHWHの子として、エロヒムのいのちの共有。これがニュークリーチャーとされること。すべてはいのちとしての御霊の働きである。かくして善と悪を知る道(=良心の咎めの道)からいのちの道(=清められた良心による道)へと復活するのだ。
いまや、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。-Rom 8:1

ミッドタウンとヒルズを往復して、ランチとディナーを。このお寿司の店、新しい処で、お任せで実に上ネタかつヴォリューミー。さて、いくらのお勘定が・・・とワクワク(ビクビクか)してましたが、2万を超えない実にリーズナブル。びっくりでした。お勧めです。

今回のメッセでも語ったが、ローマ5章12節(Rom 5:12)の読み間違いはかなり深刻な問題を引き起こしている。邦語訳にいわく-
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
まずこの訳に従って検討する。「ひとりの人」はアダムであることは明らか。その違反により罪が「この世」に入った。そして罪の結果として全人類に「死が」はいってきた。すべての人が罪を犯したので死が全人類に入ったーという因果関係になる。
ポイントは、罪が入ったのはこの世であり、全人類に入ったのは死である。これはこの訳でも明らかである。
ただし、この訳では「すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入った」と解されている。ここで、「ので」と訳された単語を見てみると、”epi”である。Strongによると-
A primary preposition properly meaning superimposition (of time, place, order, etc.)
続く格により意味は若干異なるが、「上書きする」とか「重ね書き」するが原意である。そこでHRBでは―
Even as sin entered the world through one man, and death through sin, so also death passed to all men, inasmuch as all sinned.
CLVでは-
Therefore, even as through one man sin entered into the world, and through sin death, and thus death passed through into all mankind, on which all sinned –
これらの訳のニュアンスは、「死が全人類に入ったことに重ね書きして(ゆえに)すべてが罪を犯した」となる。つまり、「すべてが罪を犯した⇒死が全人類に入った」の流れではなく、「死が全人類に入った⇒結果すべてが罪を犯した」の流れとなる。事実、パウロはこう証言している-
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心思いの法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 -Rom 7:18-24
ここには三種類の”law”が出ている。肢体にある「罪の法則」、「神の律法」とそれを行おうとする「思いの法則」である。この三種類の法則に絡まれてパウロは罪からではなく、「死のからだ」から救ってほしいと叫ぶ。8章に行くと、四つの目の”law”である「いのちの御霊の法則」がそれをなすことが分かる。
ポイントは、死のからだから救われることだ。つまりローマ書5章12節でアダム以降継承されるのは、罪(Sin)ではなく[1] … Continue reading、死である。死が全人類にしみ込んだのだ(田川訳)。その結果、世にあった罪の誘惑にあらがうことができず、自由意思により人はある瞬間に具体的に罪を犯す。この時に、「悪が入り込」む。これが肢体に存する罪(Sin)である。けっしてアダム以来自動的に継承されたものではない。
実際、パウロはこう証言している-
というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。-Rom 5:13-14
罪は律法により意識される(Rom 7:7)。アダムからモーセの間には律法はなかったから罪は意識されないし、またアダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も死の支配を受けたとある。彼らは罪の支配は受けなかったが、死の支配は受けたのだ[2] … Continue reading。つまり彼らにはアダムの罪は継承されていないことは明らかである。
なぜ人は罪を犯すか? 生まれたばかりの子供はイノセンス、無垢である。自由意思の行使はできない。しかし死の支配は受けている。
罪が死のうちに(en)支配していた・・・-Rom 5:21
だから罪の誘惑にあらがえず、ある瞬間に意志をもって罪を犯す。この時に、ひとつでも違反があれば有罪とされ、罪の侵入を招く。ちょうどエデンの園で起きたことが再現されるのだ。その罪は彼自身が招いたものであり、アダムから自動的に継承したものではない。
かくしてこのローマ5章の論は、罪の継承の問題ではなく、死といのちの対比を述べている。裁きはたったひとつの違反によるが、恵みは多くの違反を通して働き義へと導く。律法が入ったのは罪を増し加えるため、罪の満ち溢れたところには裁きではなく、恵みがなおいっそう満ち溢れ、人に義をもたらし、義はいのちへともたらす。このいのちにあって支配するのだ(Rom 5:15-21)。
追記:12節の”epi”については次のような議論がある(NET Bible footnote)。この記事で私が採っている立場は(2)である。
The translation of the phrase “eph ho” has been heavily debated. For a discussion of all the possibilities, see C. E. B. Cranfield, “On Some of the Problems in the Interpretation of Romans 5.12,” SJT 22 (1969): 324-41. Only a few of the major options can be mentioned here: (1) the phrase can be taken as a relative clause in which the pronoun refers to Adam, “death spread to all people in whom [Adam] all sinned.” (2) The phrase can be taken with consecutive (resultative) force, meaning “death spread to all people with the result that all sinned.” (3) Others take the phrase as causal in force: “death spread to all people because all sinned.”

TODAY’S CELEBRATION Aug 09, 2020:恵みは裁きをオーバーライトする
MSGタイトル:恵みは裁きをオーバーライトする 引用聖句:Ro …
- MSGタイトル:恵みは裁きをオーバーライトする
- 引用聖句:Rom 5:12-21 etc.
- 2020年8月16日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13:00-15:30(8月より時短とします) - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。


本日、ある方と上の写真の店にてエキサイティングかつ実に面白いお話をした。店内に入る際、まずは手を消毒、次にマスクを着用してくださいとのこと。外すのは飲んだり食べたりするときのみ・・・。セレブも時短にしたり、一応、従っているところ。
しかし、現状はすでにインフルエンザ・レベルのウイルスになっているのだ。このビデオで紹介されている次の図を参照してほしい。

安倍氏が中国に忖度してた間にK型が入ってきたのが奏功してるようだ。安倍氏もなかなかやるじゃん!って感じ?(笑)

死亡数は餅をのどに詰まらせて死ぬレベルだ。・・・と言うわけで、この騒ぎ、来るべき統制社会への実験なのかもしれないと思ってしまう昨今である。
なお、最近では感染者数ではなく、PCR陽性者数と言うようになった点は評価する。東京は300超え、神奈川でも100越えで新記録だそうだ。


今回のメッセも少し語ったが、今のニッポンの惨状を救うのはMMTである。なぜなら、それはマネーの本質を説明しているだけだから。この意味では理論と言うには不適切である。またオカシオ・コルテスが議会で語ったから左系思想というのも間違いだ。
いわゆる主流派経済学ではある制約条件の下で効用を最大化するという思考形式を採る。もっとも簡単なのは高校一年の数学。
たとえば、A、B二種の製品一単位を作るのにX、Yという材料がそれぞれ(10,20)、(15,5)であり、Xは最大100、Yは最大80の用意があるとする。A,B一単位売れると利益がそれぞれ、10,5だったとするとき、A,Bをどんな比率で生産するときに利益が最大となるか。
解答:A,Bをそれぞれ、a, b 個づつ生産するとすると、
利益式:$$P=10a+5b$$
制約式:
X…$$10a+15b\leq 100$$
Y…$$20a+5b\leq 80$$
この制約式の元でPを最大にする(a, b)の組み合わせを求めるわけだ。グラフを書くとこうなる:

Pは図のA点を通るとき最大値:$$P=10\cdot 2.4+5\cdot 4.8=48$$ をとる。
対してMMTは制約条件が基本的にはない。ただ、インフレ率を指標として、需要があまりにも供給を追い抜かないレベルでマネー量を自由にコントロールするのだ。

この水槽の水量が経済活動の全体を表し、水があふれる時はインフレ、減るときはデフレとなる。そして水を供給できるのは唯一、政府+日銀の統合政府である。これは国債を発行して財政出動により市中にマネーを供給することになる。その際の仕分けを再度紹介しておく。
国債発行は決して国民の預金で買っているのではない。新しくマネーを産み出すのだ。マネーに制限があるとするのが主流派の考えであり、したがってマネーの奪い合いになる(クラウディングアウト)。上の例題で言えば、(a, b)の配分だ。
マネーとは制限された物質ではない。貸借関係の情報である。それは制限がない。ただし、その情報の価値を担保するのが国力(供給力)。つまり新しい価値を生み出す力。これに見合うか、あるいはやや多いマネーを供給するとマイルドなインフレが起き、これが国民を潤す。
幼稚園生に一億与えても何も生み出さないが(マネーは単なる紙切れ)、東大生に与えれば何かを生む。さらに一億与えてさらなる価値を生み出す・・・。と、螺旋的に拡大するのがリッチになる状態だ
二つの記事を紹介しておく:

CLIP:Artificial Neurons Can Function Just like Human Brain
意識とは<ニューロンの電流の流れのパターン×シナプスの化学反応 …
意識とは<ニューロンの電流の流れのパターン×シナプスの化学反応>なのだろうか? それとも「何か」が別に働くのだろうか? ブレインは人類最後の秘境。

TODAY’S CELEBRATION Aug 02, 2020:YHWHの義によるいのちと管理
MSGタイトル:YHWHの義によるいのちと管理 引用聖句:Jo …
- MSGタイトル:YHWHの義によるいのちと管理
- 引用聖句:John 3:18;Rom 3:21;5:12;17;20-21;Rev 5:10 etc.
- 2020年8月9日(日)のセレブ
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13:00-15:30(8月より時短とします) - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。


7月の東京の死者は5人、全国でも31人だった(30日現在)。月間の陽性者数1万5668人で割ると、致死率は0.2%。インフルエンザとほぼ同じだ。「死者が増えるのは感染の1ヶ月後だ」などという人がいまだにいるが、6月下旬に検査が増えた後、1ヶ月たっても死者は増えない。
またPCR検査値の読み方にも注意の事。
極論ですが、それなら軽症者は「ただの風邪」で、無症状なら感染さえしていない(他人にもうつさない)のかもしれません。繰り返しになりますが、空港検疫の陽性者の95%以上は無症状ですから、そういう人を隔離する必要性はあるのでしょうか。
もし、上の私の仮説が正しいとすると、陽性者全員を「感染者」として扱うことは、壮大なムダである可能性があります。読めばわかるように、いままで述べたことは実際のデータで検証可能ですが、残念なことに相当の労力と時間がかかるのではないのでしょうか。
5個で陽性となる。感度と特異度はトレードオフ。感度を上げると偽陽性が混ざる。逆も言える。

KF_MLより-
みなさまおはようございます。長梅雨もそろそろと思いますが、体調管理を十分にどうぞ。さて、東京で感染者(正確にはPCR陽性者)が463人となりました。先にアッセンブリーでクラスターが出たりと、私たちの身近になってきました。万が一クラスターの発生などがありますと、今後いろいろとやりにくくなります。保健所への報告などもありますし・・・。と言う次第で、8月からしばしセレブを時短にしたいと思います。換気には十分注意を払いますが、合同で歌を歌うなどにリスクがあるようです。また私のメッセも短めでいきます^^Vパン裂きは残念ながらしばらく控えたいと思います。と言う次第で、時間は13:00-15:30程度。ワーシップも曲数を絞ります。以上、状況をご理解の上、よろしくご了承ください。GBU✨Dr.Luke090-1760-6840https://blog.dr-luke.com