アダムの罪は継承されていない-原罪論の誤り-(追記あり)
今回のメッセでも語ったが、ローマ5章12節(Rom 5:12)の読み間違いはかなり深刻な問題を引き起こしている。邦語訳にいわく-
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
まずこの訳に従って検討する。「ひとりの人」はアダムであることは明らか。その違反により罪が「この世」に入った。そして罪の結果として全人類に「死が」はいってきた。すべての人が罪を犯したので死が全人類に入ったーという因果関係になる。
ポイントは、罪が入ったのはこの世であり、全人類に入ったのは死である。これはこの訳でも明らかである。
ただし、この訳では「すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入った」と解されている。はあ?、アダムが罪を犯したので死が入ったのだが。いつもながら邦誤訳の接続詞の訳がおかしいのだ。ここで、「ので」と訳された単語を見てみると、”epi”である。Strongによると-
A primary preposition properly meaning superimposition (of time, place, order, etc.)
続く格により意味は若干異なるが、「上書きする」とか「重ね書き」するが原意である。そこでHRBでは―
Even as sin entered the world through one man, and death through sin, so also death passed to all men, inasmuch as all sinned.
CLVでは-
Therefore, even as through one man sin entered into the world, and through sin death, and thus death passed through into all mankind, on which all sinned –
これらの訳のニュアンスは、「死が全人類に入ったことに重ね書きして(ゆえに)すべてが罪を犯した」となる。つまり、「すべてが罪を犯した⇒死が全人類に入った」の流れではなく、「死が全人類に入った⇒結果すべてが罪を犯した」の流れとなる。事実、パウロはこう証言している-
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心思いの法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 -Rom 7:18-24
ここには三種類の”law”が出ている。肢体にある「罪の法則」、「神の律法」とそれを行おうとする「思いの法則」である。この三種類の法則に絡まれてパウロは罪からではなく、「死のからだ」から救ってほしいと叫ぶ。8章に行くと、四つの目の”law”である「いのちの御霊の法則」がそれをなすことが分かる。
ポイントは、死のからだから救われることだ。つまりローマ書5章12節でアダム以降継承されるのは、罪(Sin)ではなく[1] … Continue reading、死である。死が全人類にしみ込んだのだ(田川訳)。その結果、世にあった罪の誘惑にあらがうことができず、自由意思により人はある瞬間に具体的に罪を犯す。この時に、「悪が入り込」む。これが肢体に存する罪(Sin)である。けっしてアダム以来自動的に継承されたものではない。
実際、パウロはこう証言している-
というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。-Rom 5:13-14
罪は律法により意識される(Rom 7:7)。アダムからモーセの間には律法はなかったから罪は意識されないし、またアダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も死の支配を受けたとある。彼らは罪の支配は受けなかったが、死の支配は受けたのだ[2] … Continue reading。つまり彼らにはアダムの罪は継承されていないことは明らかである。
なぜ人は罪を犯すか? 生まれたばかりの子供はイノセンス、無垢である。自由意思の行使はできない。しかし死の支配は受けている。
罪が死のうちに(en)支配していた・・・-Rom 5:21
だから罪の誘惑にあらがえず、ある瞬間に意志をもって罪を犯す。この時に、ひとつでも違反があれば有罪とされ、罪の侵入を招く。ちょうどエデンの園で起きたことが再現されるのだ。その罪は彼自身が招いたものであり、アダムから自動的に継承したものではない。
かくしてこのローマ5章の論は、罪の継承の問題ではなく、死といのちの対比を述べている。裁きはたったひとつの違反によるが、恵みは多くの違反を通して働き義へと導く。律法が入ったのは罪を増し加えるため、罪の満ち溢れたところには裁きではなく、恵みがなおいっそう満ち溢れ、人に義をもたらし、義はいのちへともたらす。このいのちにあって支配するのだ(Rom 5:15-21)。
追記:12節の”epi”については次のような議論がある(NET Bible footnote)。この記事で私が採っている立場は(2)である。
The translation of the phrase “eph ho” has been heavily debated. For a discussion of all the possibilities, see C. E. B. Cranfield, “On Some of the Problems in the Interpretation of Romans 5.12,” SJT 22 (1969): 324-41. Only a few of the major options can be mentioned here: (1) the phrase can be taken as a relative clause in which the pronoun refers to Adam, “death spread to all people in whom [Adam] all sinned.” (2) The phrase can be taken with consecutive (resultative) force, meaning “death spread to all people with the result that all sinned.” (3) Others take the phrase as causal in force: “death spread to all people because all sinned.”
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