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アダムの違反とは何か?

というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。-Rom 5:13-14

この聖句が明らかにしていることは、罪はアダムの違反により世に入ったが(Rom 5:12)、律法がなければ認知されないこと。つまり律法が「むさぼるな」と言ったので、パウロはむさぼりの罪を意識したのだ。

しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 –Rom 7:8-10

ポイントは律法は罪を活性化し、パウロを死へと導いたことだ。なぜなら、律法はいのち(Zoe)を与えないからだ(Gal 3:21)。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。-1Cor 15:56

さて、従来の「人類はアダムの罪を自動的に継承した」論によれば、彼の違反により全人類の体に入ったはずである(Rom 7:17)。この意味で人は生まれながらの罪人であると説教されている。つまり胎児であれ、自由意思を行使できない幼児であれ、遺伝的に罪を得ており、すでに有罪である。私もかつてはこのように考えていたのであるが、ここで次のような問題が生じる。

ロマ書5:13-14においては、「アダムの違反と同じような罪」とある。「同じような」とある原語は”homoiōma”、意味は-

a form; abstractly resemblance: – made like to, likeness, shape, similitude.(Strong)

つまり「アダムの違反」と似た形を持つ(同類の)罪である。では、「アダムの違反」とは何か? 彼は蛇に騙されたエバの誘いに乗ってあの木の実を食べた。エバはYHWHの言葉をあいまいに理解していたが、アダムは正確に聞いていたのである。ここで彼はエバの誘いを取るか、YHWHの言葉を取るかの選択の自由があったのだ。

ここで重要な点は、彼のうちにはパウロの言う内住の罪(単数形)を、その選択の時点では、得ていなかったのだ! エバは蛇に騙されて食べた(cf. 1Tim 2:14)。その時点では、エバも内住の罪を得ていなかった! 

対してロマ書7章におけるパウロの葛藤は、思いの法則によればYHWHの律法を行いたいが、体にある罪の法則が彼を虜にして、行えない。それを行っているのは自分ではなく、うちに住んでいる罪であると結論付ける(Rom 7:17)。そして誰がこの死のからだから救ってくださるだろうか、と叫ぶのだ。注意してほしいが、「罪から救ってくださるだろうか」とは言っていない。

つまり彼の犯している罪は「アダムの違反」とは同類のものではないことが分かる。パウロの葛藤は「アダムの違反」の後のものである。当初の聖句に帰るならば、律法がないアダムからモーセの間には「アダムの違反」と同類の違反を犯さなかった者がいたのだ。それは誰か? いろいろな説がある。胎児とか幼児とか・・・。人は無垢の状態で生まれてくるが、ある時に意志をもって罪を犯す。たとえ、律法が与えられていない異邦人であっても、良心がその働きをする(Rom 2:14-15)。良心に咎めのない大人がいないことは明らかである。

この時点で、罪をうちに得るのだ。良心は霊のなごりとも言われている(Mal 2:15)。律法がなければ世にある罪は死んでいる。律法を意識したときに罪は活性化されて、違反を行うとき、私たちのうちに働き出す。律法の与えられていない異邦人であるわれわれにとっては良心がその機能を果たす。かくして、人は人生のある時点で罪をうちに得てしまうのだ。これがパウロの、また私たちの葛藤の開始である。

そしてこの葛藤から解放されるのは、つまり死の体から解かれるのは、新しいいのち(Zoe)を得ることにより、新しいいのちの御霊の法則が働くことによる(Rom 8:2)。このキリストのうちにインプラント・トゥゲザー(sumphutos)されて、その死と復活に組み込まれる(一体化)ことにより、新しいいのちの領域に生きることが可能となる(Rom 6:5)。

すべてはいのちの種類の問題である。アダム系のいのちではなく、キリスト系のいのちへの転機。最も高きエロヒムであるYHWHの子として、エロヒムのいのちの共有。これがニュークリーチャーとされること。すべてはいのちとしての御霊の働きである。かくして善と悪を知る道(=良心の咎めの道)からいのちの道(=清められた良心による道)へと復活するのだ。

いまや、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。-Rom 8:1

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