デュアルワールドに生きる
ロマ書5章の「アダムの違反と同類の罪」(Rom 5:14)と同7章の「内住の罪による罪」(Rom 7:17)の違いについてはすでに指摘した。一人の違反により罪(Sin)が世に入り、死が全人類に沁み込んだ(田川訳)(Rom 5:12)。現経綸の体は「死の体」ゆえ、罪(Sin)に抗せないため、アダムにあって生まれた人は時系列のある時点で自らの意志により罪(sins)を必ず犯す。律法を持つ者は律法により、律法を持たない者は良心によりそれは認知される(Rom 2:14-15)。
そして罪は罪と死の法則により、この体の中に働き出す(Rom 7:21-23)。このゆえに現経綸の体は「罪の体」とも呼ばれる(Rom 6:6)。ローマ7章のパウロの葛藤は、神の律法を行おうとする思いの法則に逆らって罪と死の法則が働くことにより、これら三種類の法則(Laws)によってがんじがらめになっている状態である。
律法により罪(Sin)はその悪性度を強める(Rom 7:13)。まことに死のとげは罪、罪の力は律法である(1Cor 15:56)。ついにパウロは叫ぶ、自分はなんとみじめなのだ、誰がこの死の体から救ってくださるのか、と(Rom 7:24)。そしてイエス・キリストに感謝を捧げるのだ。が、その直後こう告白する:
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心思いでは神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである-Rom 7:25。
彼はデュアルワールドに生きていることを告白しているのだ。そしてロマ8章では新しい法則が導入されて、パウロは葛藤から解かれる道を見出す。
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 –Rom 8:1-2
それは自己努力の問題ではなく、法則による。重力の法則を飛行の法則が打ち消すのと同じことだ。飛行機に乗ったら誰も自分で飛ぼうとしない。あるいは落ちないようにシートにしがみつくことも無意味である。ただ、安息して座るだけだ。まことに
信じた者は自分のわざをやめて安息に入る。-Heb 4:3
しかもその罪(Sin)はキリストが罪とされることにより(2Cor 5:21)、その肉体において処罰され、すでに主人の座から引き下ろされている(Rom 8:3)。それは毒を抜かれたウイルスのようなものである。ただ、われわれが霊の領域を出て、それに同意するときには、依然として罪(sins)を犯す余地がある。その時にはイエスの血潮が用意されている(1John 1:9)。
パウロが生きるデュアルワールドは、ひとつはナチュラルな五感の領域、ひとつはスーパーナチュラルな霊の領域である。罪と死の法則は五感の領域で働く;対していのちの御霊の法則は霊の領域で働く。パウロはこうも言う-
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。-Rom 8:10
エロヒムの霊を分与されて、その種(sperm;DNA)をインプラントされたニュークリーチャーとはもちろん霊の領域の存在である。そこにはキリストが生きておられる、否、聖霊が来られるとき、父と子もその人のうちに共に住まうのである(John 14:23)。ニュークリーチャーの本質は、体でも魂でもなく、霊である。
ここで魂(知・情・意)の位置が問題となる。それは体と霊のはざまに存在し、どちらの影響を受けるのかが問われる。体の五感による物理的サブスタンスの影響を受けるのか、霊の感覚(Heb 5:14)による霊的サブスタンスの影響を受けるのか。前者は肉の人と呼ばれるが(1Cor 3:3)、後者は霊の人と呼ばれる(1Cor 3:1)。そしてその間に魂の人が存在する(1Cor 2:14)。
義人はフェイスによって生きる(Heb 10:38)、フェイスとは願われるサブスタンスとその現出である(Heb 11:1)。問題は五感の領域からいかに解かれるか? パウロは言う-
なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。-Rom 8:13
ここの「霊」には定冠詞はない。つまり必ずしも御霊のことではない。五感の働きを無効にするのは霊である。ガラテヤ書においても-
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。-Gal 5:16-17
ここの霊も必ずしも御霊とは言えないが、御霊は私たちの霊と共に働くことは指摘しておく(Rom 8:16)。この節はロマ7章の葛藤とは異なる。ロマ書は三つの法則の対立であり、ガラテヤ書は霊と肉の対立である。しかも「自分のしたいと思うこと」とは前節の「肉の欲望」であり、それを無効にするのは霊であるとパウロは指摘する。
かくしてパウロが証しするとおり、ニュークリーチャーたるわれわれは、スーパーナチュラルな霊の領域とナチュラルな五感の領域のデュアルワールドに生きている。魂はそのはざまで選択の自由があるのだ。この点においてエデンの園におけるアダムの立場にあるとも言える。カルバンは全的堕落と称して、自由意志の働きさえも認めないが、自由意志は今もなお働くのだ。意志の力は救いをもたらさないが、意志による応答はYHWHの救いへともたらす。
霊のうながしか、五感のうながしか、魂はそのどちらに応答するか、つねに選択を問われている。この意味で英国のColin Urquhartは「フェイスとはチョイスである」と言っている。
是非フォローしてください
最新の情報をお伝えします